佐々木譲『ワシントン封印工作』新潮文庫 2000年

 1941年,日米交渉が難航する中,日本人とアメリカ人両方の血を引くミミ・シンプソンは,スパイとして,ワシントンD.C.の日本大使館に潜入していた。一方,現地採用で大使館に勤める留学生・大竹幹夫は,一目見たときからミミに好意を寄せるようになる。戦争へと大きく流れ込もうとしている時代,ふたりの若きストレンジャーたちの運命は?

 『昭南島に蘭ありや』もそうなのですが,この作者は,国家が戦争へと突入する時代を描くときに,重層的なアイデンティティを持った人物や,国籍的・民族的にマージナルなキャラクタを配して,その視点から時代の流れを描き出すのがお好きなようです。それは,戦争という,「身元」「所属集団」の明示−「敵か,味方か?」−が否応もなく求められるシチュエーションだからこそ,「敵」でも「味方」でもない−同時に「敵」にも「味方」にもなりうる−スタンスの視点が,戦争や国家をシビアに見つめることを可能にするからなのかもしれません。
 本編の主人公のひとり,ミミ・シンプソンは,日本人の父親とアメリカ人の母親を持ち,12歳まで日本で過ごしたアメリカ市民です。彼女は,アメリカ国務省補佐官トラビス・ホルブルックの愛人であり,ワシントンD.C.の日本大使館のタイピストを隠れ蓑にスパイ活動をしています。一方,もうひとりの主人公大竹幹夫は,日本人ですが,アメリカに留学して5年,自分のアイデンティティの構築を,日本よりもアメリカにおいて形成した人物です。また彼が精神医学を学んでいるという設定は,国際社会に対する理解をおろそかにし,戦争へと雪崩れ込んでいく日本帝国への辛辣な批評的視点として機能しています(個人的には,精神医学的な言説は好きではありませんが,彼の口を通じて語られる作者の「近代日本」評は妙に説得力があります)。
 そんなマージナルなキャラクタ同士の恋物語を軸としながら,その周辺に,国家の中枢部に深く関わる人物たち−ホルブルックや,日本外務省の官僚たち−,まさに「国家」を体現している人物たちを配して,両者のコントラストを鮮やかにしています。

 さて物語は,開戦前夜の日米交渉の舞台裏−ワシントン内部での「和平派」と「開戦派」との確執,本国との乖離に苦悩しながら和平交渉を続ける野村大使,国益よりも省益を優先させる外務省官僚などなど−を描いていくことで進んでいきます。そこであぶり出されるのは,アメリカと日本の「情報」に対する,まったく異なる態度でしょう。アメリカ側が日本に関する情報を収集し,それに対する解析を徹底させているのに対して,日本側は,本国と大使館との間に意志疎通さえもままならず,ついには,宣戦布告という,きわめて重要な文書さえも定刻に届けられず,「卑怯な国家・民族」という歴史的な烙印を押されてしまう大失態を演じてしまいます。
 この開戦前の「情報戦」に対する相反する態度が,その後の無謀な戦争の遂行とその結末へと繋がっているのではないかというのが,もしかすると作者の視点なのかもしれません。
 しかし,どのように和平交渉が進もうと,わたしたちは,1941年12月8日,日本軍がハワイ真珠湾を奇襲し,太平洋戦争が始まってしまうことを知っています。ですから,作品全体につねに「不安」の匂いを読者がかぎ取ってしまうことは仕方ないことでしょう。むしろ作者は,その時代的な「不安」を,ふたりの若い恋人たちの「先行きの不透明さ」に結晶化させることで,より鮮明に浮かび上がらせようとしていると思います。そして,時代に翻弄されながらも,日米交渉の決裂・開戦という歴史と対照的な結末を,ふたりに迎させることで,暗い時代の中にかすかな希望を見出そうとしているようにも思います。

 ただわたしとしては,もう少し大竹幹夫のキャラクタを書き込んでもらいたかったですね。ミミに比べると個性がややくっきりしないところがあるように感じられます。同時に,全体的にも,アメリカ側のキャラクタに比べて,日本側のキャラクタがいまいち精彩を欠くようにも思います。もしかすると,そのコントラストが狙いだったのかもしれませんが。
 それと,新しい「章」や「節」が,似たような文章−日時や場所を「・・・である」という文章−で始まるのが,繰り返し見られるところも,少々気になったところです。

00/12/28読了

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