佐々木譲『昭南島に蘭ありや』Cノベルズ 1998年

 1941年,日米開戦にともない,英領シンガポール在住の日本人は収容所に入れられ,英国軍は,中国系の共産党と国民党とで抗日義勇軍を結成する。だが1942年2月,破竹の勢いでマレイ半島を南下した日本軍は,シンガポールを占拠,名を昭南島と改める。台湾人で客家,日本旅券を所持する梁光前(リョウ・コウチャン)は,みずからとは何者なのかと問いながら,その激動の渦に飲み込まれていく。そして1943年,来島した東条英機を暗殺する計画が秘かに進行し・・・。

 主人公の梁光前は台湾人ですが,戦前ですので,台湾は日本の植民地下にあり,「大日本帝国臣民」でもあります。また東京で3年間勉強し,貿易商・桜井一家の従業員として働くとともに,家族同様のつきあいをしている親日家です。
 しかし戦争の勃発により,彼の立場はきわめて微妙なものとなります。スパイ容疑をかけられ,そのため殺人事件に巻き込まれ,さらに官憲の追求を逃れるため,抗日義勇軍へと身を投じます。日本軍のシンガポール占拠後は,ふたたび「台湾人=日本人」として生活しながらも,義勇軍時代の人間関係から,半ば強制的に抗日組織の東条英機暗殺計画に加えられるといったように,さながら巨大な濁流に流される木の葉のごとく,彼の運命は二転三転します。
 そんな波乱に満ちた彼の半生は,まさに彼自身のアイデンティティ,「台湾人」であり「中国人」であり「日本人」であり「客家」であるという,重層的なアイデンティティの象徴でもあるように思います。戦争という「国家」間の争いの際には,みずから帰属する集団を明確にすることが求められます。それは「敵」と「味方」とを峻別するために,国家が,軍隊が要請するものです。それは個人的な繋がりを分断することも往々にしてあります。そんなとき,光前のような重層的なアイデンティティを持つ者,マージナルな存在というのは,「自分とはいったい何者なのか?」という問いを突きつけられるのかもしれません。そしてその選択次第によっては,生と死とを分ける分水嶺にもなります。
 物語のラスト,登場人物のひとりが,光前に問います。
「光前。きみはけっきょく,何者なんだ?」
と。それに対する光前の答は,激しい雷鳴に遮られて,不明のまま闇に沈みます。その「答の不在」こそが,けっしてみずからのアイデンティティに疑いを持たず,所属する(幻想の)集団に安住する者たちにとって,もっともシビアな「問い」になっているのかもしれません。
「おまえたちこそ何者なのだ?」
という・・・。

 そういった過酷な時代を生きる主人公の姿を描いた重厚な作品ではありますが,けっして重苦しいというわけではありません。むしろ,スパイ容疑のかかった主人公をめぐるサスペンス,主人公と麗娜との悲しいラヴロマンス,物語中盤に描かれる日本軍と抗日軍との戦闘,そしてクライマックスでの東条英機暗殺計画の成り行きなどなど,ストーリィは起伏に富み,時代の流れと奇妙な運命に翻弄される主人公を追いながら,ぐいぐいと読み進んでいけます。やはり話作りの巧みな,この作者ならでは作品でしょう。

98/06/07読了

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