佐々木譲『ストックホルムの密使』上下巻 新潮文庫 1997年

 イタリアは降伏し,ナチスドイツも崩壊した第二次世界大戦末期,日本もまた連合国の攻勢の前に落日を目前にしていた。スウェーデン駐在武官・大和田市郎は,日本をめぐる米ソの極秘情報を入手。その情報を日本に届けるため,1945年7月末,ふたりの密使を派遣した・・・。

 『ベルリン飛行指令』『エトロフ発緊急電』につづく“第二次世界大戦秘話3部作”のラストの作品です。泥沼のごとく撤退と敗北のすえの日本帝国の崩壊を描いてます。

 歴史は変えることはできません。主人公たちの奮闘にもかかわらず,広島・長崎には原子爆弾が投下され,ソ連軍は国境を越え進攻します。このような歴史を扱った作品では,そういった歴史的事実を変更することはできません。しかしその一方で,歴史というのは虫食いだらけの古文書のようなもので,ところどころ想像力で補わなければ,読み解けない代物でもあります。歴史的事実と作家的想像力,このふたつのせめぎ合いの中で,こういった作品は形づくられるのだと思います(だから歴史への想像力や敬意が微塵も感じられない“シミュレーション戦記”の類はわたしは大嫌いです)。

 さて物語は,大きくふたつの部分より成り立っています。ひとつは前半1〜3部(上巻)で,日本をめぐる米ソの思惑,日本内部での和平派と抗戦派との軋轢,各国情報部の水面下の暗闘などなど,ストックホルム,東京,パリ,ベルリンなどを舞台として,“国際謀略もの”的な展開で,ストーリーは進みます。後半4・5部になると,一転,ふたりの密使が,奇抜な手段を駆使しながら,連合国占領下のドイツ,モスクワ,そしてシベリア〜満州を越えて,日本を目指すという“冒険小説”的な展開を見せます。前半を“静”とすれば,後半は“動”といったところでしょう。どちらも緊張感を損なうことなく,ぐいぐいと読み進めていけました。とくに日本海軍の軍人である大和田市郎と亡命ポーランド政府情報将校・コワルスキに,博打打ちの“不良邦人”森四郎というスタンスの異なるキャラクタを加えることで,単なる“スパイの任務遂行もの冒険小説”とは,違う色合いを物語に与えているようです。ここらへんの人物造形や配置は,やはりこの作者,卓抜な技量を持っていますね。

 しかし,個人的に一番緊張感を感じたのは,そういった“冒険”の後に来る短いエピソードです。『ベルリン』『エトロフ』ともに顔を出していた海軍省書記官・山脇順三は,ヨーロッパ的合理主義者で,国際法に明るく,日本が生き延びるためには一刻も早く和平を実現しなければならないと言う信念を持ったエリート官僚です。彼は,連合国からもたらされた和平の条件の一文を前にして苦悩します。「天皇は連合国最高司令官に服属する」という一文が,戦後の天皇の地位を保証するものかどうか,という米内大臣の問いを前にして,返答をためらいます。合理主義者・山脇は,それが天皇の地位を保証するものではないことを知っていながら,その一方で,そのまま返答すれば,日本は,徹底抗戦の果てに破滅するであろうことも知っています。短いながら,まさに日本の運命を決める決定的瞬間です。山脇の脳裏をよぎる,日本軍による朝鮮・中国での非道,大空襲による惨状などがオーバーラップして,(文字通り)息をつめて読み進めたシーンでありました。

97/12/28読了

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