池宮彰一郎『その日の吉良上野介』新潮文庫 1998年

 諜報戦・謀略戦というユニークな視点から,『忠臣蔵』を描いた『四十七人の刺客』のインサイド・ストーリィのような短編5編を収録しています。刃傷事件から討ち入りまで,大まか「時代順」に並べられているようです。
 なお本作品は,掲示板にて姐御さん(旧ピングーさん)からご紹介いただきました(_○_)

 さて『四十七人の刺客』は,元赤穂藩国家老大石内蔵助と上杉家江戸家老色部又四郎との対決を軸に,吉良邸討ち入りまでの経緯をスリリングに描いていますが,この作品集におさめられた短編にも,コントラストをなすキャラクタを配置するというドラマ作りの常套的な手法を用いたものがいくつか見られます。
 「千里の馬」は,赤穂浪士のひとり千馬三郎兵衛と,赤穂藩主浅野内匠頭との確執を中心に,三郎兵衛が,浪士の一員として吉良邸に討ち入るまでの数奇な運命を描いています。たしか堺屋太一の,やはり赤穂浪士を描いた『峠の群像』では,町人層がしだいに台頭してきた時代として元禄時代をとらえ,その時代の変わり目=「峠」に立つ人々として浪士たちを描いていました。この「千里の馬」においても,作者の似たような時代観が現れているように思います。つまり戦国時代の雇用関係としての「君主」と「家臣」が,理念的なものに変貌する一方で,武士の「官僚化」が進行する変化の時代としての元禄時代です。その「端境期」を内匠頭と三郎兵衛というふたりのキャラクタで描いているのではないでしょうか。
 「剣士と槍士」では,巷間では「親友」と伝えられる高田郡兵衛堀部安兵衛との姿を描いています。真剣勝負という死地をくぐり抜けたがゆえに,ひとつの「境地」に達している安兵衛に対して,槍を出世の具として,俗世間での欲に囚われた郡兵衛というふたりの対照性を,郡兵衛に対する作者の冷徹な視線を織り交ぜながら,鮮やかに浮かび上がらせています。

 表題作「その日の吉良上野介」「十三日の内蔵助」は,討ち入り直前のふたりの「主人公」を描いているという点で,対になっていると言えるでしょう。
 「その日の・・・」では,吉良上野介が,家臣新貝弥七郎に,浅野内匠頭との「因縁」を語るという形で,刃傷事件の「原因」を描いています。巻末の「解説」にあるように,刃傷事件の「原因」については,歴史上,まったくわかっていないとのことですので,ここで語られる「真相」は,作者の推理によるものと言えます。作者は,その「原因」を,ちょうど「ボタンの掛け違い」「巡り合わせの悪さ」として読み解きます。わずかな,しかし何度も繰り返された「ずれ」が,刃傷事件へ,さらに「討ち入り」とう「合戦」へと発展していく様は,まさに皮肉としか言いようのない展開です。『四十七人の刺客』において,「忠臣」でない内蔵助を描き,謀略戦としての「忠臣蔵」を描いたこの作者の,シニカルで冷徹な視線が,その「原因」の設定にも貫かれているように思えます。
 一方の「十三日の・・・」では,討ち入り,つまり事の成否に関わらず「死」への旅立ちとなる前日の内蔵助の姿を追います。ここで描かれる内蔵助は,ただひたすら「事の成就」に想いを巡らせ,決行直前の逐電者の出現に悩み,女を抱くことでストレスを解消しようとします。そして重要な点は,主君浅野内匠頭のことは,いっさい触れられていないことです。内蔵助にとって,内匠頭の存在はすでに過去のものであり,自分たちの「討ち入り」とほとんど関係ないことなのでしょう。むしろ彼にとって大事なのは,自分の子どもを宿したかるの行く末です。そこには,「忠臣」として,すべてを犠牲にして主君の仇を討つ内蔵助の姿はまったくなく,自らの美意識に対する執着がもたらすであろう悲劇を,できる限り少なくしようとするやさしさ−作者はこれを内蔵助の「矛盾」と呼びます−もった人間としての内蔵助が描出されています。

 本集ラストに収められた「下郎奔る」で対照させられているのは,人物ではなく,廃絶となったふたつの大名家−赤穂浅野家松山水谷家−です。廃絶後,かたくなに「武士」であろうとする赤穂浪士たちと,「武士」であることをみずから放棄してしまったがゆえに廃絶された水谷家が描かれます。それと同時に,この作品では,内蔵助が内包している「矛盾」のもうひとつの面をも描いているように思います。
 「吉良邸討ち入り」とは,内蔵助の「武士であり続ける」というこだわりに由来するという設定で,この作者による「忠臣蔵」は描かれています。しかしその一方,内蔵助の中には「武士でなくてもいい」という考えが宿っています。自分は武士であり続けることにこだわるが,他者に対しては,平気で「武士でなくてもいい」と言います。
 内蔵助の顔を見知っているがために,吉良家に雇われた,元水谷家家臣木幡信兵衛は,「武士であり続ける」内蔵助に敬意を表しながらも,武士であるがゆえに,吉良家・上杉家に翻弄され,一時的ではありますが,「下人」という屈辱的な身分に身を落とさざるを得ません。しかし,その結果,彼は,内蔵助の「武士でなくてもいい」という側面を受け継ぐことになります。ラストで,彼の足が,自分の長屋ではなく,世話になっている鳴海屋へと向かうのは,そんな「武士との決別」を象徴しているようにも思えます。内蔵助の「武士であり続ける」こだわりは,多くの人々を死地へと追いやりますが,もうひとつの「武士でなくてもいい」という心持ちは,信兵衛に新たな人生を歩ませることになります。ですから,信兵衛を通じて描き出されているのは,そんな内蔵助のふたつの対照的な心のありようなのかもしれません。

 この作品集は,『四十七人の刺客』で創り上げられた「池宮版・忠臣蔵」という世界のディテールを,短編という形で補足,肉付けしたものと捉えられましょう。

01/02/04読了

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