藤沢周平『漆黒の霧の中で 彫師伊之助捕物覚え』新潮文庫 1986年

 竪川に浮かんだ不審な死体は他殺だった。同心・石塚の依頼を受け,伊之助は殺された男の素性を探りはじめる。少ない手がかりを手繰りながら,しだいに素性が明らかになってきた矢先,伊之助は何者かに命を狙われる。そして,同じ手口による殺人がふたたび発生! 無口で退屈な男の死に隠されていた秘密とは・・・

 『消えた女』に続く,元凄腕の岡っ引きで,今は版木彫師の伊之助が活躍する「大江戸ハードボイルド」の第2弾です。

 この作品の舞台は,おそらく江戸時代の後期と思われますが,その頃の江戸というのは,100万人もの人口を擁する世界有数の大都会であります。当時の日本の中心地として(もちろん今もそうですが),ときに合法的に,ときに非合法的に全国各地から人々が流入してきていました。それゆえ,親の代,祖父母の代まで互いにしっかりと知り合っているという村社会にはない,利害と欲望のみに基づく人間関係が形成され,そんな人間関係が生み出すダークサイドが形作られます。
 たとえば,最初の被害者七蔵の「素性の曖昧さ」が,江戸の都会性を象徴しているように思います。七蔵の素性の探索を,同心石塚から依頼された伊之助は,彼の勤め先,彼の住んでいた長屋へ赴き,聞き込みを繰り返します。しかしそこから得られる情報は,いずれも断片的で,なかなか全体像を結ぶことはありません。もちろんそれは,ストーリィをミステリアスにする手法のひとつでもあるのでしょうが,七蔵のような,一種の「根無し草」的な人間を抱え込み,またそんな人間が生きていけるということは,都会が都会であることの所以なのでしょう。

 さらに江戸時代後期は,本作中でも触れていますように,支配者である武士の台所は火の車,町人たちがその力を伸ばしてきた時代,つまり資本主義が芽生えつつある時代とも言えます。その中で,地縁・血縁に取って代わって,金銭的関係としての,利害関係としての人間関係が先鋭化されていきます。「自分にとって,ある人物が利益をもたらしてくれるかどうか?」が,人間関係形成に大きな要因になっていきます。
 伊之助が,七蔵の死の真相を探っていくうちに,辿り着いた,その背後に横たわる暗い欲望とは,まさにそんな資本主義的な欲望のなれの果てとも言えるかもしれません。

 都会と資本主義――アメリカのハードボイルド小説と相通ずる舞台装置を,江戸時代の大都市・江戸が持っていたと断じてしまうのは,いささか強引かもしれませんが,少なくともフィクショナルな世界では,違和感がないように思われます。そういった意味で「大江戸ハードボイルド」とは,けして奇を衒ったレッテルではなく,むしろ「なるべくしてなったカップリング」なのかもしれません。

00/05/28読了

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