中井拓志『quarter mo@n クォータームーン』角川ホラー文庫 1999年

 「嘘ノカワリニ,ホンモノノ棒ヲクレマスカ?」(本書より)

 1999年夏,岡山県の小都市・久米原市では,中学生の不可解な自殺・他殺が続発していた。そして死体のそばには,月齢と「わたしのHucklberry Friend」というメモが必ず残されている。「大人たち」には理解できない「子どもだけの世界」ではいったい何が起きているのか? 

 『レフトハンド』から2年半ぶりの新刊だそうです。前作で見せたブラック・コメディ風というか,諧謔調の文体は健在とはいえ,やや薄味になっているようにも思います。個人的には,前作よりも読みやすいという印象を持ちました。

 さて物語の舞台岡山県久米原市は,次世代通信網実験都市として,学校はもちろん,中・高校生のいる家庭約4000世帯のコンピュータが「光オンライン」でつながっている,という設定になっています。いわば凝縮された「インターネット社会」であり,この設定でのホラーなわけですから,本作品はインターネット社会における「アンチ・ユートピア」的な色彩を持っています。
 そのため,現在インターネットをめぐって取りざたされている,さまざまな「弊害」が作中に取り込まれ,増幅されています。たとえば「匿名であるがゆえに生じる悪意」,たとえばチャットや掲示板における「際限なくエスカレートする他者への攻撃」,たとえば「会話の断片化」などなどです。
 インターネットをはじめて早4年近くが経ち,たしかにこのような「弊害」と呼ばれることは耳にし目にするのですが,いたって穏健な(笑)ネット・サーファであるわたしにとっては,どこか「別の世界」という気がしないでもありません。幸い「罵倒し合うチャット」に参加したこともありませんし,他者への誹謗中傷や悪意に満ちた掲示板も,見かけたことはあっても,それはあくまでごく少数です。そのためインターネットに対する過剰反応として,少数例をもって拡大解釈をしているようなところもあるのでは? という疑問も一方で感じています。ですからこの作品で描かれる「アンチ・ユートピア」は,いまひとつ実感できないところもあります(もっとも,ホラー作品の世界に「実感」を求めること自体,意味がないのでしょうが)。

 まぁ,それはともかく,わたしが,本作品で一番「怖い」と思ったのは,フィクショナルな世界を作り上げ,その中に埋没している少年少女たちの姿ではありません「退屈な現実」よりも「楽しめる嘘」を選択する心性は,どこか共感できる部分もあります(「小説を読む」という行為には,多かれ少なかれそんな心性が働いているのかもしれません)。
 むしろ,その「楽しめる嘘」を「ルール」でがんじがらめにして,その「ルール」に従うことを,自分にも,他人にも厳格に冷徹に課す,というところにあります。登場人物のひとりは言います。
「でもさ,ルールってみんなそうじゃん。わたしたちさ,他にくだらないルール,山ほど守らされてるよ? そうしろって,ずっと言われてきたから,そうするしかないんだよ。そうするしかできなくしたのは,あんたたちだよ?」
 「退屈な現実」から離れて「楽しめる嘘」で遊ぶ彼らの世界には,「退屈な現実」の影が厳然として存在します。この作品での「楽しめる嘘」は,「退屈な現実」を振り切って飛翔するものでもなく,あるいはまた「退屈な現実」を相対化するような力も方向性も持っていません。彼らが楽しんでいる(と言っている)「嘘」は,彼らが忌避する「退屈な現実」の「写し絵」となっています。「楽しめる嘘」を選択することを「逃避」と断ずることはたやすいでしょう。しかし,そんな「嘘」しか,どこまでも「退屈な現実」の影から逃れることができず,最後には袋小路に至らざるを得ない「嘘」しか構築し得ない彼らの姿こそ,この作品の描く「恐怖」なのではないかと思ってしまうのです。

00/01/10読了

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