日下三蔵編『岡本綺堂集 青蛙堂鬼談 怪奇探偵小説傑作選1』ちくま文庫 2001年

 「しかし誰にも確かな説明の出来るはずはなかった。ただこんな奇怪な出来事があったとして,世間に伝えられたに過ぎなかった」(本書「影を踏まれた女」より)

 全5冊よりなるシリーズものの第1弾。このあと『横溝正史集』『久生十蘭集』『城昌幸集』『海野十三集』と続くようです。渋いライン・アップで,しばらく楽しめそうです。
 本集は,連作短編「青蛙堂鬼談」12編と,独立短編13編,計25編よりなります。

 人は,みずからの「理」の外側にあるもの=「理外」を「怪異」と呼びます。もちろん怪異は怪異なりの「理」があるのかもしれませんが,人の側からその「理」はうかがいしれません。つまり「怪異」とは,「理外の理」と「人の理」とが接触する場面において生じる現象を,人の側から見たものと言い換えることもできるでしょう。
 しかし人は「理外=怪異」をそのままに放っておくことはできない心性を持っているようです。ですから「理外」を人の「理」の中に取り込もうとします。それがいわゆる「因果噺」です。理解不能な現象を,「原因」と「結果」という,人にとって馴染みやすい理解可能な関係性に位置づけようとするわけです。
 それゆえ,人は,「因果関係=人の理」で説明できる「怪異」よりも,それに還元できない「怪異」に,より深い恐怖を感じるのでしょう。そしてこの作者こそ,そのことを十二分なまでに理解して「怪談」を書いていた作家さんだと言えるかもしれません。

 たとえば「影を踏まれた女」では,「影踏み」という子どもの悪戯をきっかけに,しだいしだいに強迫神経症に苛まれる女の悲劇的な末路が描かれています。なぜそうなったのか? 女はなにをそれほど恐れたのか? いっさいの理由も原因も不明なまま,物語は冒頭に掲げた一文をもって,幕を閉じます。同様に「猿の眼」では,路上の困窮武士から買い求めた木彫りの猿の面にまつわる不可解な出来事が語られ,「竜馬の沼」では,時を距てた過去と現在で発生した,ふたりの少年の奇妙な失踪が語られますが,そこには「なぜ」という問いの答はいずれも明らかにされることはありません。また「蟹」は,見知らぬ少年から買った蟹を発端にして繰り広げられる悲劇を描いています。いわれのない強烈な「悪意」の存在は確認できるものの,その「悪意」がなにに発するかはいっさい不明です。
 だからといって,これらの作品が「尻切れトンボ」というわけではありません。むしろ「因の不在」がもたらす恐怖感は,闇夜を歩いていて危うく崖から墜落しそうになるような,足場が「ふっ」となくなるような恐怖にも似ています。

 一方,本集には,ミステリ仕立ての作品もいくつか収録されています。「木曾の旅人」は,山中の父子ふたり暮らしの家を訪れた旅人に隠された犯罪を描き,また「水鬼」は,騙した男に対する女の復讐譚を,「鰻に呪われた男」では,異常な習癖を持った男を夫にしたことによる女の悲哀を描いています。これらは,いずれも「人の理」内部で完結するという意味においてミステリと言えましょう。
 しかし作者は,そんな「人の理」の傍らに,あるいは背景に「理外」−「木曾の旅人」で子どもが「見た」ものや,「水鬼」での「枕元の官女」,「鰻・・・」での主人公の見た「夢」などなど−を挿入することで,怪談ともミステリともつかぬ,一種独特の手触りを持った世界を生み出しています。出来事は「理」のうちに収束しながらも,それだけではすくいきれないものが,指の間から抜け落ちていくような感じです。

 また本書の特徴のひとつ(それはおそらく岡本作品の特徴なのかもしれませんが)は,ほとんどの作品が「語り」として設定されていることです。とくに「青蛙堂鬼談」は,好事家の「青蛙堂」のもとに集まった人々が怪異を語るという,いわば「百物語」の形態をとっています。つまり語られる内容は,語り手の経験であったり,語り手の友人や知り合いの体験だったりします。
 このスタイルは,まさに「怪談」のもっとも原初的な型式です。それゆえ,老婆の語る口調,インテリが語る口調,商人風の男が語る口調などなど多彩であり,語られる内容とともに,その「語り口」にそれぞれ独自の味わいが醸し出されていることも,魅力のひとつと言っていいでしょう。

 ところで,「青蛙堂鬼談」の1編として収録されている「清水の井」は,『怪奇・伝奇時代小説集1』(春陽文庫)では,「水鬼」の「続譚」とされています。一方その「水鬼」は本書では独立短編として再録されていますが,ここらへんの関係はどうなっているんでしょうね?

01/02/24読了

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