京極夏彦『塗仏の宴 宴の始末』講談社ノベルズ 1998年

 この感想文は,ストーリィに深く触れているため,未読の方にはお薦めできない内容になっていますので,ご注意ください。

 伊豆で起きた裸女猟奇殺害事件の犯人として逮捕された関口巽は,「自分がやった」と“自供”する。一方,伊豆韮山の土地をめぐって暗躍するさまざまな怪しげな集団。いったいその土地にはなにが隠されているのか? そして15年前に起こったという大量殺戮事件の真相は? 人々の記憶を弄くり,操る謎の人物の真意は那辺にあるのか? 深い決意を秘め,京極堂がその重い腰を上げる。狂乱と混沌に満ちた「宴」を「始末」するために・・・。

 というわけで『宴の支度』刊行から半年待たされてようやく出た『宴の始末』であります。
 『支度』で描かれたさまざまな怪異,不可思議な現象,奇妙な宗教団体,得体の知れない謎の人物たち・・・,それらの並行する流れはしだいにひとつの方向へと集約していきます。伊豆山中にある“戸人村”。そして“戸人村”を,村に隠された“秘密”をめぐる争奪戦という,この物語の構造が浮き上がってきます。
 しかしそこはこの作者,一筋縄ではいきません。一見,“秘密”をめぐる争奪戦のごとき様相を呈したストーリィは,京極堂の“憑き物落とし”により,その姿を大きく変貌させます。「騙す側」は「騙される側」になり,「事実」は「虚構」へと変じ,「夢」は「現」と化します。それは,この物語の底流として何度も繰り返し語られた「自由意志」「本末転倒」などといったモチーフが,鮮やかに浮かび上がるシーンでもあります。さらに二重三重に仕掛けられた“事件”の真相,そこからは恐るべき“悪意”の存在が立ち現れてきます。ここらへんの世界の反転,カタストロフは,相変わらず見事で,怪しげな宗教団体やらなにやらの“正体”には,正直,驚かされました。

 以上のような展開の仕方は,これまでのこのシリーズの基本的なフォーマットを踏襲しているものといえましょう。しかしこの作品には,もうひとつ特異な性格があるように思います。それは,主人公・京極堂の事件に対するスタンスです。
 このシリーズの特色は,京極堂という特異なキャラクタにあります。玄妙不可解な事件が起こり,京極堂が,「拝み屋」としての特殊な知識と技術を駆使して,「憑き物」を落とす,というところにあります。ただし京極堂の事件への関わり方は,傍観者的なものですし,いうなれば「いやいやながら」という感じです。
 しかしこの作品における事件の“真相”,そしてラストに明かされる“悪意”は,まさに京極堂というキャラクタの根元に関わるものです。作中,登場人物のひとりは,京極堂を評してこういいます。
「中禅寺自身は多分優しい男なのだろう。しかしその言葉は怖い。・・・実際―彼の言葉は人を殺し,常識を覆し,不安を呼び覚ますことが出来るのだろう。・・・拠り所は彼の人柄だけなのだ」
 なぜ京極堂は京極堂であるのか?
 なぜ彼は「拝み屋」なのか?
 これまで所与のものとして設定されていた京極堂自身に対する根元的な問い,これはこのシリーズの大きなターニング・ポイントになる可能性を秘めているのではないでしょうか? そしてそれは京極堂と同等の(あるいはそれ以上の)知識と技術,そして京極堂とまったく異なる心性を持つ人物との闘いを通じて描き出されるのかもしれません(もちろん,この作品だけで完結してしまう可能性もないわけではありませんが・・・)。

 ところで作中に出てくる「塗仏」の原型ではないかと京極堂が想像する,中国四川省の銅製品の元ネタは,こちらです(ただし期間限定サイトかもしれませんので,閉じていたらご容赦を)。

98/09/27読了

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