藤本泉『呪いの聖女』ノン・ノベル 1979年

 財産家・石郷岡宗次郎が殺された。その莫大な遺産を継ぐのは養女の妙ひとり。しかし過去二十余年の間に,石郷岡家の人々はすべて謎の死を遂げていた。そこには何者かの意図が働いているのか? 負傷のため療養中の甲地刑事は,単独,その“事件”を追う。妙の故郷である岩手の寒村に飛んだ彼が見いだしたものは・・・

 かつて「近代」とは「光の時代」であり,「近代化」とは「進歩」であり,「善」でした。たしかに「近代化」は,人々に豊かで安楽な生活を提供したことは間違いないでしょう。しかし,その「近代化」と引き替えに失われたものがある,ということで,「ポスト・モダン」「アンチ近代」が叫ばれるようになりました。それは「近代」が単純に「善」と呼べるものでもなく,「進歩」と呼ぶほど普遍的なものでもないことを明らかにしました。
 しかし・・・・と,わたしは思うのです。「ポスト・モダン」が「克服すべき近代」と呼ぶものは,どれほど実体を正確に表現しているのだろうか? 「近代」と十把一絡げにしたものの中に,「(良くも悪くも)近代化されざるもの」が脈々と受け継がれているのではないだろうか? と・・・。「近代化」という強力なシステムの中で抑圧され,差別されてきたものたち,場所たちの中に,いまもなお脈々と・・・。そして,ときとしてそれは闇の中で,その凶暴な復讐の牙を研いでいるのではないかと・・・

 さて,『呪いの聖域』において,東北が抱える「闇」に手を出し,その「牙」によって破滅していく人々の姿を描き出したこの作者は,この作品でふたたび東北の怨念を取り上げています。しかし,この作品で描かれる「闇の牙」は,『聖域』のように,ただひたすら待つのではなく,うかつにも手を出してしまった人々に恐るべき攻撃を仕掛けます。じわりじわりと,急ぐことなく,周囲に不審を抱かせても,けして疑惑を抱かせないやり方で・・・。ですから,逆説めいた言い方ですが,「攻撃」においても彼らは「待つこと」を,『聖域』と同様,蟻地獄のごとく待つことを知っています。
 「近代化」とは「合理化」「効率化」の別名でもあります。それは「復讐」や「殺人」においても適用されるのかもしれません。「敵」をより効率的に撃退し,排除する方法としての「殺人」。当然,選ばれる方法もまた効率性,合理性が求められます。探偵役は,犯人の合理的で効率的な「近代的思考」を前提として,事件を解決していきます。
 しかしここで描かれる「犯罪」と「事件」は,そんな「合理」や「効率」とは必ずしも馴染みません。甲地刑事が辿り着いた“真相”は,「非近代的な動機」に基づいた,そして「近代的なやり方」とはとても思えない,20年以上もの時間をかけ,世代を越えて完成された「犯罪」です。しかし「近代的」でないがゆえに,「近代」などよりもはるかに長い時間と経験とを蓄積した「非近代」であるがゆえに,より一層強力で,凶暴なものなのでしょう。だからこそ「近代の光」が見つけることのかなわない,深い闇に紛れ込んで完遂されるのでしょう。

 「光の近代」の奥底に脈々と受け継がれる「非近代という闇」――それは「ポスト・モダン」などと呼ばれる「近代が産んだ鬼っ子」などとは比べようもないほど,力強く,したたかで,たくましい存在なのかもしれません。

99/03/20読了

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