菊地秀行『懐かしいあなたへ』講談社文庫 2002年

 「誰でもなくなることは,それほど楽しいのだろう」(本書「仮面生活」より)

 14編を収めた短編集です。
 シリーズものが多く,「長編作家」というイメージの強い作家さんですが,ここのところ「異形コレクション」などに精力的に寄稿されており,短編作品でもそのすぐれた資質を発揮されておられますね。これまでこの作者の作品は,けっこうな数読んできましたが,今のところマイベストといっていい,いずれも粒よりの作品を収録しています。
 とくに気に入った作品についてコメントします。

「何処へ」
 息子とともに消えた妻は,上司の家に,彼の妻としており…
 奇妙な「二重生活」を描いている作品。それが「二重」ではなく「三重」,いやさ「底」が見えない多層的な「世界」が作り出されていく可能性を示すラストは,落ち着きの悪い不安定さを上手に醸し出しています。関係ないですが,その昔,同タイトルの谷村新司のエッセイ集がありました(笑)
「単身赴任」
 泊まりがけの外出を極度にいやがり,夫の転勤にも必ずついていく妻の真意は…
 夫の浮気を心配するあまり,しだいに狂的な領域へと進んでいく妻,という,ありがちな展開の果てに,思わぬツイスト。これもまたひとつの「愛の物語」なのかもしれません。
「おれとおれ」
 “おれ”は暴力団のボスであり,“おれ”は警察の刑事であり…
 ふたりの“おれ”のモノローグを頻繁に入れ替えることで,奇妙なテイストを産み出すとともに,その“おれ”の主体性さえも,その中で溶けていってしまうという,なんともシュールな作品です。
「仮面生活」
 夫の机で見つけた仮面。以来,夫はその仮面をつけた生活を送りはじめ…
 「仮面夫婦」という言葉は,いつの頃からか,マスコミで定着してしまいましたね。もっぱらネガティブなイメージが強い言葉ですが,「仮面をつける」という行為には,ある種の「いかがわしさ」「あやしさ」がともないますが,だからこそ新鮮で魅力的なことでもあるのでしょう。
「あの人よ」
 路上,ひとりの女が“私”を指さし,叫んだ。「あの人よ!」と…
 一方で,女の行為の持つ作為性は,「理」に落ちる可能性を匂わせ,その一方で,バスから忽然と姿を消す女というシチュエーションは,「理外」へと広がる可能性を持つ。そのあやういバランスの末に,ラストで「くるり」と状況を反転させる手業は鮮やかです。
「依頼」
 凡庸な上司の意外な出世。その背後には,ある“依頼”があり…
 「げに恐ろしきは宮仕え」と言いますが,それをグロテスクに肥大化させた作品です。けっして明るみに出ることのない,悪意さえ籠もったような「上司」の存在は,サラリーマン社会のカリカチュアなのでしょうね。
「寂しげな女」
 自殺するつもりで,その街を訪れた男は,ひとりの女と出会い…
 人は,自分よりも弱い者に対する保護欲のようなものを持っているのかもしれません。弱い者もまた,そのことを,自覚的にしろ無自覚的にしろ,利用することがあります。女の「囁き」とは,そんなけっこうありそうな場面の象徴的な表現なのかもしれません。
「流人」
 その部屋に住む人間とはぜったいつきあってはいけない。そう聞かされた春代は…
 巨大な団地群を見上げるとき,そのひとつに「開かずの間」があってもおかしくないという気にさせられます。不条理な物語ですが,最後で,その「部屋」を脱出するために採った主人公の「手段」が,理にかなっているようにも見えて,苦笑させられます。
「大きな夫」
 夜な夜な,夫は身長300mに巨大化して,家を抜け出す…
 「夫の浮気」を直視することを嫌って,妄想をふくらませる妻,といった感じなのですが,その妄想のふくらませ方−身長300mの夫−が,妙にとぼけていて,ほとんど悲壮感がありません。
「人間師」
 長い年月にわたって,警察は“人間師”を追い続けた…
 「人間」と「人形」の関係を反転させることで,逆に両者の区別はもしかしたら曖昧なのかもしれない,と思わせるような寓話的な作品です。「人の世は,神が脚本を書いた幕間狂言」という,以前どこかで読んだセリフを思い出しました。
「お寝み,人形さん」
 ひとり息子を交通事故で失った妹は,精神的に疲弊し…
 狂っているのは妻なのか,それとも夫なのか? 食い違う両者の証言が,ぎりぎりとした緊張感をストーリィに与えています。その矛盾する証言をすっきりと整合させて「理」に落とすところは見事です。本集中,一番楽しめました。

02/06/06読了

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