白石一郎『投げ銛千吉廻船帖』文春文庫 1997年

 「世間でざらにある話だが,こうやって本人の女を見ているとざらにある話と片づける気にはならないな」(本書「流人船」より)

 江戸深川の長屋に住む雇われの沖乗船頭・千吉は,かつて北前船の船主であったが,海難事故で弟を含む乗組員を失って以来,船頭としてのすぐれた手腕を持ちながらも,自分の船をけっして持とうとはしなかった。そして今日もまた,口入れ屋・俵屋市右衛門の紹介で,西へ東へと海を渡っていく・・・

 この作者の十八番「海洋時代劇」です。ただし,これまでわたしが読んできた作品−『海狼伝』『海王伝』『風雲児』などと比べると,ちょっとニュアンスが違います。それらの作品が,なんらかの歴史的な事実や事件を素材しながら,そこにフィクションを織り交ぜながら物語を編んでいるのに対し,連作短編集の体裁をとる本編は,もちろん江戸時代における海運業の発達という歴史を背景としながらも,主人公を「市井の庶民」とし,彼が住む長屋の人々との関わりをクローズ・アップしている点,「時代小説」としてのオーソドックスな舞台を設定した上で,「海」という,この作者の「得意技」を絡めた作品となっています。

 さて本編の主人公千吉は,雇われの沖乗船頭で,暗い過去を背負っています。それゆえ,自前の船を持つことを,また所帯を持って「人並みの幸せ」を得ることを禁じています。いわば,ハードボイルドなキャラクタと言えましょう。そんな彼が,海上で,陸上でさまざまなトラブルに巻き込まれるのですが,そのときに彼の武器となるのが,タイトルにあるように「投げ銛」です。長さ八寸,幅一寸,末尾に穿たれた穴に強靱な苧綱が結びつけられ,千吉はそれを自由自在に操ります。時代劇では,剣戟シーンは必ずといっていいほど登場する「定番」ですが,この投げ銛により大立ち回りは,そんな剣戟シーンとはひと味違う,どこか「必殺仕事人」の世界に通じるような小気味よさがありますね。

 その投げ銛が繰り出される格闘シーンが「お約束」として各編に必ず挿入されますが,それとともにこの作品の魅力となっているのが,千吉と長屋の住人たちとの交流でしょう。とくに,大店の娘で,大身旗本の庶子を産んだおみや新七の親子,茶屋で働く明るく元気なおそめと,弟の絵師の卵・音次郎が,メイン・キャラクタとして登場します。前に書きましたように,千吉は,その暗い過去のため,人とのつき合いにちょっと距離を持つような感じなのですが,この2組との交流の中で,彼の心がしだいしだいに柔らかくなっていくところがいいですね。
 たとえば,千吉が「その富士山の絵はおかしい」ともらした一言をきっかけに,音次郎を清水湊まで連れていくという「三保の松原」と,父親の実家である旗本から,新七を跡継ぎに,と強引に頼まれたおみやが,新七の身を匿うために,千吉とともに筑前まで船に乗って一時逃げる「新七の夢」などのエピソードが,わたしは好きです。とくに後者,幼いながら,自分と母親が置かれた立場を理解し,母親とともに生きていくことを選んだ新七が,着実に成長していく姿は気持ちがよいです。

01/02/10読了

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