白石一郎『風雲児』上下巻 文春文庫 1998年

 17世紀の初め,ひとりの男が,故郷・駿河を離れ,長崎,高山国(台湾),そしてシャム(タイ)へと渡っていった。しがない駕籠かきであった彼は,数奇な運命に誘われるようにして,シャム・アユタヤ王朝の貴族の最高位にまで登り詰める。が,政争に巻き込まれた男は,異国の地で非業の最後を遂げる。彼の名は山田仁左衛門長政という・・・。

 日本は海に四方に囲まれた島国です。しばしば日本人の性質として「島国根性」というネガティヴな言葉が使われますが,そのとき「海」は周囲との交流を遮断する「壁」として意識されていると思います。しかし作中,貿易商人・荒木宗太郎は言います。
「異国へ渡る船はよく沈むという人がいる。それは嘘だ。時節を選び,天候を知り,船を選ぶ。その心掛けがあれば沈没などめったにするものではない。」
 また長政がリゴール王としてマレイ半島を南下する際,陸路を行く長政一行よりも,船に乗った部下たちの方が,先に目的地に着く,という描写が出てきます。たしかに「板子一枚下は地獄」と言われるように,遭難すれば命がいくつあっても足りない海ではありますが,海を知る者,そして海を渡ろうという意志を持つ者にとって,海はけっして「壁」ではなく,大きな外へとつながる「道」なのかもしれません。
 戦国時代から,徳川幕府が鎖国するまで,多くの日本人が東南アジアに旅立ったと聞いています。ある者は,南海貿易で莫大な利益を得んと野心を燃やす商人であり,またあるものは,戦に敗れたのち,海賊として,あるいは傭兵として第二の人生を南洋に求めた侍たちだといいます。東南アジアの各地には,そんな日本人たちの住む「日本人町」が数多くつくられたそうです。山田長政の名前は,そんな有象無象の人々の中でも,ひときわ光彩を放つ人物として,前々から関心がありました。
 最初は,山田長政も,そういった日本人たち,野心と欲望にギラギラと燃えているような人物設定だと思っていたのですが,この作品の山田長政は,どこか茫洋とした,透明感のある人物として描かれています。むしろ,野心や欲望は,長政を取り巻くキャラクタ,たとえば彼の旧友で,南海貿易で一山当てようと燃える長九郎やオランダ商人エルスト,アユタヤ王朝の国王の座を秘かに狙うカラホームたちが担っているようです。長政はそんな彼らの間に立ち,黙々と淡々と,そして冷静な思慮を巡らす人物として描かれているように思います。
 作者は,高山国(台湾)安平港に入る直前の海賊の襲撃,長九郎との死に別れ,メナム川でのスペイン船との壮絶な闘いなどなど,物語の要所要所に「山場」をつくりながら,彼の波瀾万丈の人生を描き出していきます。そのため,長大な物語ではありますが,長政や彼を取り巻く個性豊かなキャラクタと緩急自在のストーリィ展開に魅せられ,最後まで飽きることなく読み進めることができます。
 個人的には,池で溺れる幼い王女を救い出したものの,神聖な王女の肉体に触れるというアユタヤ最大のタブーを犯したため,あわや処刑されるかもしれない,という場面が,異文化の中で生きることの難しさと長政の性格を鮮明に描き出している効果的なシーンとして,好きです。

 この作者の“海洋もの”を読むのは『海狼伝』『海王伝』に続いて3作目です。時代物,歴史物についてはあまり詳しくはありませんので,間違っていたら訂正していただきたいのですが,このような「道としての海」を舞台にした時代物を好んで描く作家さんというのは,けっこう異色なのではないでしょうか? しかし日本が島国である以上,海もまた,日本の歴史にとって欠くことのできない重要な舞台なのでしょう。別の作品も読みたくなります。

98/06/23読了

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