柴田よしき『聖母(マドンナ)の深き闇』角川文庫 1998年

 一児の母親となった村上緑子(リコ)は激務の新宿署を離れ,下町の辰巳署で穏やかな日々を送っていた。そんな彼女の前に現れた,男の身体と女の心を持つ美女は,失踪した親友を捜してほしいとリコに依頼する。一方,所轄の廃工場で主婦の惨殺死体が発見され,被害者は覚醒剤常習者であることが判明。一見,関係なさそうにに見えた事件は奥底で密接に結びついていた。事件の果てにリコが見た“深き淵”とは・・・。

 さて『RIKO〜女神の永遠〜』で鮮烈なデビューを飾った「リコ・シリーズ」の第2作です。「未婚の母」となったリコが新たな事件に挑みます。
 本作品では,さまざまな形の“性”が描かれています。異性愛,同性愛,そしてTG(トランス・ジェンダー)の女性と,彼女を女性として愛する男性などなど。前作の感想文で,リコが異性愛では得られなかった快感を同性愛によって得ることができたのは,社会的に推奨され,「正常」と見なされている異性愛に対するアンチ・テーゼの意味があったのではないかと書きましたが,本作品では,そのテーマがより鮮明になっているように思います。とくに肉体的性別と精神的性別とが一致しない磯島豊のキャラクタ造形は,性のあり方の多様性をもっとも端的に表しているのではないかと思います。
 社会はさまざまな面で「多数者」と「少数者」からなります。往々にして,その数的な差異は,「正統と異端」「正常と異常」というレッテルが貼られます(それは学問的な体裁をとることさえあります)。しかしこれだけ複雑化した現代社会では,ある側面では「多数者」に属しつつも,別の面では「少数者」に属する場合もあるでしょう。そう言った意味で,伝統的な「レッテル」貼りの基準が無効になりつつある時代なのかもしれません。もちろん,その基準そのものがけっして絶対的なものではなく,時代や地域,社会や文化によって異なる,相対的なものにしかすぎないものであることも考えていかなければならないことなのでしょう。

 同様のことは,本作品のメイン・テーマでもある“母性”の問題とも結びついているように思います。いわゆる「母性神話」なるものがあります。「子育ては女の本能なのだから,育てて当たり前,育てられないのは異常」という考え方です。それゆえ母親の子殺しは,本来できるはずのことができないダメな(異常な)母親によってなされたのだ,と考えられます。しかし作品中でリコは言います。
 たしかに過去においても子育ては女の手にゆだねられてきたけれど,周囲にそれをサポートする社会があったから可能なのであり,核家族化した現在に同じ事は求められない。
と。ここでも「子育て」を「母性」という,永遠不変の“本能”によって説明するのではなく,時代や地域によって異なっているとして相対化しています。
 人はどうしても自分がいま生きている社会や文化のあり方を絶対的なものとして,中心的なものとして受け入れてしまい,正当化する傾向があるようです。そのあり方で自分に不利益が被らない場合は,とくにそうでしょう。そして不利益を被っている人間に対しては「仕方がない」という形で現状を追認していくのかもしれません。
 このシリーズを読んでいると,普段「あたりまえ」と思っていることに強烈なカウンタ・パンチを喰らうような新鮮な驚きがあります。

 物語としてみると,前半から後半へのシフトが,少々うまく行き過ぎというか,リコの捜査の展開も偶然が多いような気がします。また長セリフが目立ち,作者の言いたいことが,登場人物の言葉でストレートに出ているところなどは,もう少し情景描写の中で描き出してもらいたいな,と思うところであります。そこらへんが少々もの足りなかったのが残念です。
 それにしてもリコを取り巻く男性陣,前作と比べるとずいぶんと変わってきましたね。これもリコの影響の賜物なのでしょうかね。

 ところでこの作品は映画化されるようで,文庫の帯の惹句に,
「女は哀しい,その宿命を乗り越えて犯人を追いつめる女刑事RIKO」
とあるんですが,リコは,この惹句にあるようなステレオ・タイプな女性像をもっとも嫌うんじゃないでしょうか?

98/04/05読了

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