恩田陸『球形の季節』新潮文庫 1999年

「噂がどうして流行るか考えたことある? それはね,みんなが望んでいるからだよ,それを。そうしたい,そうなってほしいとみんなが願っているからなんだよ。」(本書より)

 「5月17日に,如月山でなにか恐ろしいことが起きる」 東北の小都市・谷津の高校生の間で広まる奇妙な噂。その出所を探り出そうと調査を開始した,浅沼弘範,坂井みのりら,「地歴研」のメンバ。そして17日,ひとりの少女が姿を消した! 噂の背後に隠れていたものとはいったい・・・

 わたしたちの住む「世界」というのは,普段は人ひとりの力ではびくともしないほどに安定しているようにも見えて,その一方で,ある「一点」を押せば,ばらばらと脆く崩れていってしまうような不安定なもののようでもあります。また平凡で退屈,フラットで連続的に見えながら,その背後に,奥底に,まったく姿形の異なる「顔」を持っているのかもしれません。そして,そんな「世界」が隠し持っている不安定さや異形の顔を,見ることができるのは,自分自身が不安定で,内部に「異形の顔」を隠し持っている者なのかもしれません。
 しかしもちろん,不安定だからといって,「それ」を見ることができるのはすべての人々ではなく,ほんの一握りの人なのでしょう。かつてはそれは,本編に出てくるようなマサルのような人々だったのでしょう。現代では,それは不条理な暴力や抑圧の中で苦しむ少年少女なのかもしれません。目の前の世界があまりに「苦痛」に満ち,その世界から脱出したいとせつに願う,傷ついた心なのかもしれません。
 けれども,たとえ見ることはできなくても「感じ取れる」人々はきっと多いにちがいありません。自分の行きたいところ,行けるところ,なにもかもがあるように見えて,気がつくと選択肢はほんのわずかしか残されていない,淡々として退屈でありながら,深いところにドロドロとしたマグマのようなものを抱え込んでいる若者―高校生―たちこそ,もっとも敏感に「感じ取れる」人々なのでしょう。
 『六番目の小夜子』で,「学校怪談」を題材としながら,そんな高校生の「ざわざわ」とした雰囲気をみごとに切り取って見せたこの作者は,この作品では,「高校生」を素材にしながらも,「学校」という枠を越えて,東北の小都市,「谷津」という,ひとつの「世界」が持つ不安定さ,異形の相貌を描き出しています。

 一読,じつに雰囲気づくりの巧い作家さんだな,と改めて思いました。冒頭から,高校生の間で囁かれる奇妙な予言めいた噂,実際に起こる女子高生の失跡,金平糖を使った「恋のおまじない」,サディスティックな体育教師に象徴される閉塞感に満ちた高校生活,街の各所に置かれた緑色の石,「油取り」という谷津に伝わる妖怪の伝説,フラッシュバックのように挿入される荒涼たる風景・・・・現代的な「都市伝説」と伝統的な「民話」とを交錯させ,さらに「世界」と「世代」の不安定さを共振,共鳴させ,増幅させていく展開,イメージを十重二十重に重ねていく描写は,読んでいて「ぞくぞく」するようなミステリ性と幻想性を醸しだしています。
 そして後半,それら不可思議な「事件」の裏側が明らかにされるとともに,ラストで,不安定で,さまざまな選択肢の残されたエンディングが投げ出されます。ここにいたって,この作品は,ホラー的ファンタジィ的な衣をまとった,ひとつの「イニシエーション」を描いた「青春小説」であることに気づきました。もちろんそれは,強固な秩序が持っていた安定した(ほとんど儀礼化された)「イニシエーション」ではありません。行き着く先も,結果も,秩序への回帰も保証されない「イニシエーション」。それはまた,閉じられた「球形」の「世界」から,「季節」から逃げ出したいと心のどこかで念じながらも,その手段を持たない少年少女たちの目の前にぽっかり開いた「脱出口」なのかもしれません。その「脱出口」を前にした登場人物たちのそれぞれの選択を描いたラストは,人生における次のシーンへのステップを象徴的に描出しているように思えます(おそらく,こういった感想は,そうゆう「季節」を通り過ぎてしまった「おっさん」のものなのでしょう^^;;)

99/02/01読了

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