西澤保彦『仔羊たちの聖夜(イヴ)』角川書店 1997年

 タック,タカチ,ボアン先輩の3人が始めて会ったクリスマス・イヴ。彼らの目の前で,ビルの最上階から女性が墜死。ほぼ1年後のイヴ直前,ボアン先輩のもとから,そのとき彼女が持っていたと思われるプレゼントが出てきた。そのプレゼントの正当な受取人を捜して,タックとタカチの“巡礼”が始まる・・・。

 ミステリとしては,同一の場所で連続する墜死事件をめぐって,自殺なのか,他殺なのか,他殺ならば犯人は・・・,という体裁になっています。最後に明かされる真相は,例によって,多少妄想的な部分がないわけではありませんが,たしかに意外であり,それなりに着地して,けっこう楽しめました。ただこの作品では,そういった事件の謎解きの部分(タカチにいわせれば“探偵ごっこ”の部分)とともに,タックとタカチ,とくにタカチこと高瀬千帆が,事件解明の過程で会う人々との“出会い”そのものが大きなウェートを占めているのではないかと思います。いつもクールで,他人とのコミュニケーションを拒絶しているような孤高さをもったタカチ。しかしこの事件に関しては,じつに「らしくない」「へんな」行動が多い,とタックの目に映ります。墜死した女性や高校生をめぐる家庭環境がしだいに明らかにされていく過程で,タックとタカチの前には,本人たちは「子どものためによかれ」といいつつ,子どもを独善的に支配しようとする親たちの姿が立ち現れてきます。そして親たちのそんな姿と,その関連で起こってしまった事件は,タカチの奥深いところに隠れていた父親との葛藤と共振し,共鳴します。タカチにとって事件の解明は,みずからとは離れた関係のない“できごと”,“探偵ごっこ”ではなく,まさに自分自身が抱える問題,トラブルとも対峙することになるわけです。本書の各章はいずれも「××の巡礼」となっています。タックとタカチ,とくにタカチにとって,それはまさに「事件」を「自分自身のこと」として引き受け,「自分自身」の解答を探すための“巡礼”なのかもしれません。ただしこの作品で,その「解答」が見いだせたとは,わたしには思えません。なぜならこの物語でなされたことは,単に「告発」にとどまっているように思えるからです。事件の“真犯人”(のひとり)が,タック,タカチと対決した際に放った言葉(ネタばれになるので書きませんが)は,たしかにタックやタカチにとっては,傲慢でヒステリックな言葉なのかも知れませんが,それらを「独善的支配」という一語でもって断じてしまっていいのでしょうか。結果として死者を出してしまったことに対する非難としてなら,それはそれで,そういう言葉で呼ぶことの正当性はおそらくあるのでしょうが,どうもそこらへんが,最後まで疑問として残りました。

 家庭環境や親子関係が,ロス・マクドナルドの作品にしばしば見られるように「ミステリ」の原因となり,またスティーヴン・キングのように「ホラー」の温床になるということ。それは「 現代の家族」が抱える特有の問題なのか,それとも「家族」や「親子関係」そのものがつねに潜在的にもっている性質なのか,いろいろと考えさせる作品でした。それに「相手のために」とか「よかれと思って」という発想は,けっして親子関係だけではなく,通常の人間関係にもしばしば見られる「いいわけ」ですしね。

 ただこの作者の人物の描き方は,『複製症候群』でも感じたのですが,少々カリカチュウアされすぎている感があり,そのあたりが読んでいて,ちょっと鼻白んでしまうところがやはり難ですね。

97/10/19読了

go back to "Novel's Room"