池波正太郎『剣客商売 二十番斬り』新潮文庫 1997年
池波正太郎『剣客商売 浮沈』新潮文庫 1998年

 すべての物語は,はじまりがあれば必ず終わりがあります。いや,すべての物語の「はじまり」の中につねに「終わり」が内包されています。「Never Ending Story」は,物語のタイトルにはなっても,物語そのものにはなりません。

 「女武芸者」ではじまった本シリーズは,「二十番斬り」「浮沈」という2編の長編をもって幕を閉じます。「二十番斬り」は,秋山小兵衛の隠宅に逃げ込んだ,かつての弟子井関助太郎と少年豊松。彼らを狙う侍たちを撃退した小兵衛は,ふたりの周囲に不穏な空気をかぎつけ・・・という話です。一方「浮沈」は,26年前,小兵衛が斬り殺した山崎勘助,その息子勘之助と知り合いとなった彼は,勘之助が何者かに襲われる場面に遭遇し・・・という内容です。「二十番斬り」の冒頭,小兵衛が,朝起きると目眩を起こし,立ち上がれなくなるという「ひやり」とするシーンが描かれますが,どちらのエピソードでも,小兵衛が大立ち回りを演じる,まさに「時代劇」といった作品となっています。2編はもちろん独立した内容となっていますが,両者にどこか通底するものがあるように感じられるのは,この2編がシリーズ最終作という意識が強いせいでしょうか?
 その感じられる「通底するもの」とは,いわば「時代の流れ」とでもいうものなのかもしれません。わたしはこれまで,このシリーズにおいて「時の流れ」が,大きなモチーフになっていると感じていました。この作品は,時の中で移ろいゆくもの,変わりゆくもの―それらを,さまざまなエピソードの中で描き出していたように思います。
 「二十番斬り」の終盤,天明四年(1784)に,江戸城中で起きた田沼意知斬殺事件が語られます。この事件において,周囲にいる武士たちは,狼狽し,恐慌をきたし,襲撃者佐野善左衛門を取り押さえることもかなわず,逃げまどいます。その結果,意知は致命傷を負い,翌々日死亡します。侍たちの「ていたらく」を聞いた小兵衛は暗然と呟きます。
「徳川の世も,これまでじゃ」
と。似たようなセリフを,小兵衛はこれまでも何度か口にしていますが,この事件によって,小兵衛の目には,徳川幕府は「潰れたも同然・・・」に映ったわけです。
 この「武士の世の終わり」は,つづく「浮沈」において,事件をめぐるキャラクタたちの行動においても象徴的に描かれています。たとえば滝久蔵。彼は,26年前,「親の敵」を討つため,小兵衛のもとで修行し,見事,敵を討ち果たします。そんな「武士の誉れ」を果たした久蔵は,しかし,ふたたび小兵衛の前に現れたときは,口先三寸で借金の返済を先延ばしにし,ついには奸計をもって金貸しの平松多四郎を死に追いやる卑怯者になっています。
 それに対して,小兵衛によって討たれた山崎勘助の息子・勘之助は,「親の敵」である小兵衛に出会っても,敵討ちなど想いもせず,小兵衛とつきあいます。また評定所の冤罪によって死刑にされた平松多四郎の息子伊太郎もまた,父親のさらし首を刑場から盗み出すという大技をこなしながらも,
「ばかなことです。敵討ちなぞ。討つほうにも討たれるほうも,後になって,ろくなことはありません。私は,そうおもいます」
と言い放ち,父親を継いで金貸しとなります。
 意知惨殺事件での侍たちのふがいなさ,「親の敵」を討った滝久蔵のあわれな末路,それとは対照的に,「親の敵」を討つという,いわば武士における「義務」を放棄することで,生き生きとした人生をおくる勘之助と伊太郎。そのコントラストによって,小兵衛が感じる「武士の世の終わり」を鮮やかに描き出しているのではないでしょうか。そしてそれはまた,「剣客」としての小兵衛が,徐々にではありますが,その役割を終える時代を迎えることをも意味しているのでしょう。
 そんな風に考えると,「二十番斬り」とは,剣客・小兵衛の「最後の花道」なのかもしれません。

 本シリーズは,この作者が18年にもわたって書き続けた作品です。作中での時の流れは,ほぼ7年。わたしが最初に本シリーズを手に取ってから約1年半。まだ番外編が何作か残っていますが,本編をすべて読み終わって,なにやら感慨深いものがあります。
 物語は長ければいいというものではありませんが,長い物語には,その「長さ」そのものが持つ重みというものが,やはりあるのでしょう。本シリーズのような魅力的な物語にはとくに・・・

 最終作『浮沈』につけられたフェイス・マーク「\(^o^)\」は,シリーズ全体に対するものとご理解ください。

99/09/27読了

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