池波正太郎『剣客商売 暗殺者』新潮文庫 1996年

 秋山小兵衛は,ある日,ひとりの浪人が襲われる場面に遭遇する。しかし,一太刀のもとに襲撃者を退けた凄腕は,小兵衛をして「大治郎もかなわぬかもしれぬ」と思わしめる。彼の名は波川周蔵。数日後,波川を襲った浪人の口から大治郎の名前が出たことを知った小兵衛は,弥七,徳次郎を使って,鍵となる周蔵の行方を追う。そして小兵衛が見出したものは・・・

 『春の嵐』以来の長編です。『春の嵐』が,短編とは違う,長編独自のお話作りをしているように思えるのに対し,本編は,長年培ってきた短編としての本シリーズのフォーマットを踏襲した長編のようです。つまり,冒頭,秋山小兵衛が偶然,事件の片鱗に遭遇,彼は探索をはじめますが,作者は,巧みな筋運びで,その事件の真相を隠し,ミステリアスにストーリィを展開させていきます。そして,真相が明らかになる終盤はお約束の大立ち回り,といったところです。その緩急自在のストーリィは,まさに作者の独壇場といった展開で,安心して読み進めることができます。ひとつの「芸」といったところでしょう。

 ところで,本編で一番印象に残ったのは,終盤,小兵衛と大治郎とが一連の事件の背後に隠された陰謀に気づくシーンです。その重大さに興奮し,ヒステリックにさえなる小兵衛に対して,終始,落ち着いた態度を崩さない大治郎。
「父上。こうしたときこそ,落ちつかねばならぬと,私はおもいます」
と,むしろ小兵衛を諭します。ここで描かれるふたりの姿は,本シリーズのはじまった頃には,考えられなかったシチュエーションではないかと思います。うろたえぶりを外に出すことはめったにないとはいえ,事態に困惑して相談を持ちかけるのは大治郎の役回りであり,すべてを見越した上で,小兵衛が大治郎を諭す,というのが常套だったと言えましょう。
 このシリーズでは,時の流れの中で変わっていく人の姿を数々描き出しています。ときに,すぐれた剣客が無頼の徒となり,ときに,人を斬り殺した男は人を救う医師にもなります。それは人物の性格に内因する必然的なものもあれば,ちょっとした偶然でそうなってしまう場合もあります。
 そんな「時の流れ」は,主人公たちにとってもけして逃れうるものではありません。ここ数巻,作者は小兵衛の「老い」を描き出しています。とくに前巻の最終話「夕紅大川橋」で,親友内山文太の死に直面し,みずからの生の残り少なさを体感します。親の「老い」はまた,子の「成長」の裏返しでもあります。上に挙げた小兵衛と大治郎の掛け合いは,まさにそんな「時の流れ」を象徴しているシーンではないかと思います。

 さて本シリーズも,番外編をのぞくとあと2冊。本編の最後の方で,三冬の父,ときの権力者田沼意次の失脚が語られます。田沼治世という時代設定が,本シリーズの根幹に深く結びついているだけに,この具体的な記述は,物語がゆうるりと終焉と向かっていることを示唆しているのかもしれません。

98/08/30読了

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