多島斗志之『海賊モア船長の遍歴』中公文庫 2001年

 「たしかにおれは自分の運命を呪ったことがあるが,それは,この船に乗り込む以前のことだ」(本書 モア船長のセリフ)

 頃は17世紀末,失意のどん底にあったジェームズ・モアは,友人に誘われ,キッド船長率いる「アドヴェンチャー・ギャレー号」に水夫として乗り込む。ところがいかなる運命の悪戯か,海賊討伐船だった同船はみずから海賊に転身。さらにキッド船長と袂を分かったモアは,海賊として単独新たな一味を結成する。そして彼の名は,しだいにインド洋一帯に広がることとなり・・・

 「アウト・ロウ」は日本語だと「無法者」と訳されますが,それはちょっとニュアンスが違うように思います。「アウト・ロウ=Out Law」とはその名の通り「法の外側」にいるものです。法律はたとえ多少窮屈であっても,その反面,その中にいる者を保護します。それに対して,その法の外側にいる人間は,窮屈さの代わりに「自由」を得ますが,逆に法の保護を失い,さらにその法から制裁を受けることになります。しかし,法の外側にいる者が,必ずしもまったく「法」を持たないか,というとけっしてそんなことはありません。個人ならばそれはみずからの内なる「倫理」であり,集団であれば「掟」として,独自の「法」を持っています。つまりアウト・ロウは,無法者ではなく,既存の法の外側にいて,ときとして既存の法と対立するような,独自の「法」を持つ人々と解釈することもできるわけです。
 もちろん,その「独自の法」が非人間的な抑圧的なものであったとしたら,それは他者の理解と共感を得られないでしょう。作者は,物語の冒頭,『海賊史』なる書物を例示して,18世紀の海賊たちに一定の「掟」,それも民主的なルールが存在したことを読者に伝えます。それが本当かどうかはわかりません。しかし少なくとも,本作品中において,「海賊」という存在が,暴虐無比な「無法者」ではなく,上に書いたような意味での「アウト・ロウ」であると設定するわけです。さらに,海賊行為を働きながら,既存の法への回帰を熱望するキッド船長と,すでに自分たちが「別の法」に身をゆだねていることを自覚する主人公モア船長とを対峙させ,いさぎよく決別させることで,物語の「基調」を上手に描き出しています。
 つまり冒険小説の中でよく出てくる「悪役」としての海賊でもなく,また法の外側にいながらひそかなる法の支持者である「義賊」とも異なる,読者の共感を呼ぶアウト・ロウとして巧みに造形した点が,本書の魅力のひとつとなっていると思います。

 作者は,そんなアウト・ロウにして,「潔癖な悪人」(<作中人物のひとりがモアを評した言葉)を主人公にすえながら,ストーリィにさまざまな「謎」を散りばめます。モアを絶望の淵へ突き落とした妻の変死,同じように海賊に身を投じたものの,政府密偵と疑われて拷問死した兄,それに直接手を下したとされる海賊「タイタン」の首領ブラッドレー船長,そして明らかに貴族出身であるにもかかわらず海賊となり,「薔薇十字団」を追い求める謎の男男爵(バロン)などなど・・・作者は,これらの謎を絡み合わせ,撚り合わせながらストーリィを紡ぎだしていきますが,それぞれの謎が,モアが遭遇するいろいろな事件を通じてスムーズに結びつき,クライマクスへと収束していく展開は,卓抜したストーリィ・テリングです。とにかく飽きさせません。
 またメインの謎とともに,やはり各所にばらまかれた数多くの「小ネタ」が,クライマクスで顔を出し,モアの奇想天外な「タイタン」襲撃を彩っています。ミステリ好きにはたまらない工夫です(再三,顔を出す「日本刀」が「あんな風」に使われるところは大笑いしてしまいます)。ラストの,一瞬「え? どういうこと?」と首を傾げるものの,「あ,なるほど!」と思わず快哉をあげたくなるような鮮やかな幕引きも,見事の一言です。一見,素っ気ないエンディングとも思えますが,むしろ淡々としていながら,どこかユーモアのある軽快な文体とよくマッチしていると言えましょう。
 それと,男爵(バロン)をはじめとするモアを取り巻く脇役たち−大樽,ドクター,鍛冶屋プラトン,爺さま,トマス・ピット,スービアなどなど−も,いずれも一癖も二癖もある個性豊かなところも楽しいですね。

 最初,通常とは異なる改行の仕方に少々戸惑うかもしれませんが,それに慣れれば,一気に最後まで快適に読み進めることのできる海洋冒険活劇の佳品です。
 なお本書は,『このミス'99』で,篠田節子の『弥勒』とともに17位にランキングされています。

01/04/01読了

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