帚木蓬生『ヒトラーの防具』新潮文庫 1999年

 東西の壁が崩壊したベルリンで発見された剣道の防具には,「贈ヒトラー閣下」と日本語で書かれていた。そして同時に発見された20冊近いノートと手紙の束は,1938年,その防具とともに渡独したベルリン駐在武官補佐官・香田光彦の数奇な半生を今に伝える。ドイツの血と日本の血を引く彼が,ドイツで見たものとは・・・

 1996年に出版された『総統の防具』を改題,文庫化された作品です。

 ナチスドイツの総統アドルフ・ヒトラーに贈られた剣道の防具というのは実在するそうです。この意外な,そしてミステリアスな組み合わせが,物語の発端です。ベルリン駐在武官補佐官としてドイツに渡った主人公・香田光彦は,父をドイツ人,母を日本人に持つハーフの青年。彼の兄雅彦もまた,ミュンヘンの精神病院に勤めています。時代は,ナチスがドイツの国権を掌握し,ヨーロッパ全土を戦争へと巻き込んでいく時代です。それはまた,海の向こうの日本が,いたずらに戦線を拡大し,やはり泥沼へと足を踏み入れていく時代でもあります。
 作者は,ナチスがドイツにもたらした災厄とその崩壊までを,主人公の目を通して描き出していきます。しかしそこには劇的で華々しい戦闘シーンはまったくと言っていいほど出てきません。戦時下のベルリンの市民生活,イギリス軍の空襲で街を破壊され,逃げまどう人々の姿が,抑制の効いた,むしろ淡々とした文体で描き出されていきます。それは,この物語が,主人公の日記や手紙を元にしている,という設定によるものですが,逆にいえば,そのように設定することにより,「時代の狂気」に翻弄され,蹂躙される人々の姿をクローズ・アップしようとしているのでしょう。
 ですから「英雄」も「豪傑」も,この物語には出てきません。主人公も含め,平凡な人々たちばかりです。ですが,というか,だからこそ,この作者は,そんな人々の姿の中に「人間の尊厳」を見出そうとしたのでしょう。
 精神病患者を切り捨てるナチス医学に抵抗し,親衛隊によって射殺されてしまう兄・雅彦,空襲が激しくなるベルリンを離れることなく,楽団のひとりとして演奏を続け,被爆して死んでしまうルントシュテット,地下の防空壕の中で病死するヒャルマー爺さん,そして光彦によって匿われ,彼の子を宿しながら,出産前に空襲で死んでしまう彼の恋人でユダヤ人女性のヒルデ・・・
 作中に出てくる東郷茂徳大使のセリフ,「真理ハ常ニ弱者ノ側に宿ル」は,この作品の基調をなすものなのでしょう。「時代の狂気」によって切り捨てられ,押し潰されていく弱者―精神病患者・ユダヤ人・老人などなど―の姿を描くことで,作者は,「人間としての尊厳とは何なのか?」という問いを発しているように思います。
 それは,精神病院の入院患者の姿を通じて,「生きるということの意味」を描き出そうとした『閉鎖病棟』と通じるテーマと言えるかもしれません。

 本書は,ある歴史的事件の“舞台裏”を描くという点で,「歴史ミステリ」といえなくもありませんが,むしろ「歴史ロマン」と言った方が,より適切な作品でしょう。

98/05/03読了

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