夢枕獏『平成講釈 安倍晴明伝』Cノベルス 2001年

 さてここに申し上ぐるは,日の本に並び立つものない稀代の陰陽師・安倍晴明の若き日の御姿。その彼が,宿敵・蘆屋道満と唐国より渡りし妖狐を向こうに回して繰り広げる丁々発止の呪法合戦の一部始終,夢枕獏秀斎の講釈にて,はじまり,はじまりぃ・・・

 この作者と安倍晴明といえば,いわずとしれた晴明&源博雅コンビの活躍を描く『陰陽師』があります。妖艶さと駘蕩とした雰囲気にあふれた原作だけでなく,岡野玲子の,これまた好手所を得た作画によるマンガ化作品,そして近年ではテレビ・ドラマ化,映画化と,『魔獣狩り』以来のこの作者の人気シリーズです。
 作品中のキャラクタというのは,いったんできあがると,作者の掌中を離れ,独立した性格を持つようになると思います。ましてや人気が出てくると,ファンからさまざまなイメージが投影され,ときに作者自身でさえコントロールができなくなることもあります(ちょうどコナン・ドイルにとってのシャーロック・ホームズがそうであったように)。
 ですから,作者自身は「あとがき」で,「節操がない」と自虐的に書いてますが,本作品を執筆することは,けっこう勇気が必要だったのではないかと推察します。なぜなら,みずからが創り上げて好評を博した「夢枕獏風安倍晴明像」を,みずからの手で壊すことにもなりかねないからです。『陰陽師』で夢枕獏の,あるいは安倍晴明のファンになった読者が離れてしまう危険性をも秘めているからです。

 そこで作者が選んだ手法は,両者の「語り口」をまったく変えることだったのでしょう。『陰陽師』の晴明と,本書の晴明とを,いたずらにすり合わせるのではなく,まったく異なる「語り口」を採用することで,両者の異質性をより強調すること,それが作者の手法なのではないかと思います(さらに想像をたくましくすれば,岡野玲子の対極とも言えるようなタッチを持った南伸坊を挿し絵画家としたことも,その手法の一端なのかもしれません)。
 「講釈調」−それが作者の選んだ語り口です。ベースを明治初期の講談の「速記本」に置きながら,そこに作者オリジナルのストーリィ的アレンジを加え,さらに,一種のメタ・フィクション的な作者自身の「語り」を挿入していきます。そんな「語り」を二重三重に重ね合わせることで,作品には独特の「胡散臭さ」が醸し出されています。その「胡散臭さ」とは,講釈師の方には失礼ですが,いわゆる「講釈師,見てきたような嘘を言い」という言葉に表されるような,「本当かどうかわからないけれど,そっちの方がおもしろい」というエンタテインメント作品に必携の要素でもあります。「語り」は「騙り」にも通じます。本編では,その「騙り性」を隠すのではなく,むしろ前面に押し出すことで,作品に軽快なユーモアを与えていると言えましょう。
 また基本となるテクストを持ちながら,そこにさまざまな改変と解釈,オリジナリティを加えながら,新たな「世界」を構築していく手法は,本書でも言及されている講談・落語といった「話芸」や,作者とも縁の深い歌舞伎などの芸能にも通じるものがあり,作者が新たに獲得した(あるいは獲得しようとしている)作家としてのスタンスなのかもしれません。しかし同時にそれは,この作者の初期ユーモア作品から見られた作家的資質とも言えるのでしょう。

01/05/20読了

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