篠田節子『ハルモニア』文春文庫 2001年

 「演奏家は模倣します,確かに。でもなんと言ったらいいのか,つまり真似といっても,それは神の真似をするんですよ。神の真似をするサルです。決して芸術家の真似をするサルじゃありません」(本書より 東野秀行のセリフ)

 チェリスト・東野秀行が,障害者施設“泉の里”で,浅羽由希にチェロを教え始めたのがすべての始まりだった。外界とのコミュニケーションをいっさい拒絶する彼女は,音楽に関してのみは天才的な才能を発揮する。だが,凄まじいスピードで上達するとともに,彼女の周囲には不可解な出来事が頻発するようになり・・・

 「芸術」と「人間」,「天才」と「凡才」の関係を描いた作品です。このテーマは先行作品『カノン』においてすでに取り上げられていますが,本作品ではより鮮烈に,鮮明に浮かび上がらせるシチュエーションと展開になっています。
 浅羽由希は,子どもの頃に受けた手術のため,言語による認識能力,コミュニケーション能力を失っています。しかし,東野秀行によりチェロを教わることをきっかけとして,その類い希な才能を発揮します。いわゆる「サヴァン症候群」と呼ばれる症状を呈する彼女の姿は,歴史上におけるさまざまな天才に見られたという,その才能と社会性とのギャップを象徴的に表しているように思えます。また由希が,国際的チェリストルー・メイ・ネイソンの独特の奏法を身につけ,そのコピーから抜け出せない苦闘は,彼女の持つ「体質」に由来しながらも,多くの才能が経験するプロセスとオーヴァ・ラップします。
 そして,そんな彼女の周囲に,いろいろな立場の人間を配することで,彼女の得意な才能と立場を鮮やかに浮かび上がらせます。たとえば“泉の里”の臨床心理士中沢は,彼女の音楽的才能を伸ばすことよりも,まず言語的コミュニケーションの獲得を優先させるべきだという立場をとります。一方,同じ臨床心理士の深谷は,そういった一般的社会能力よりも,由希の音楽的才能を伸ばすべきだと主張し,東野にチェロの指導を依頼します。しかし,由希がその才能の発揮とともに顕現させたサイキック・パワーがもたらす暴力性を封じ込めるため,彼女の才能を封印しようとします。それに対して,チェリスト東野は,由希の能力が持つ危険性を十二分に承知しながらも,なにより彼女の芸術的達成−「その他の人々が三百年弾き続けたって到達できない高み−を優先させます。
 作者は,由希をめぐるさまざまな想いや記憶,欲望,野心を錯綜させながら,さらにそこに,由希のサイキック・パワーや,彼女の脳手術をめぐる謎,中沢や深谷と由希の因縁などなどをミステリアスに絡めて,ぐいぐいとストーリィを押し進めていきます。
 そして作者は,最終的にひとつの立場に,物語の着地点を導きますが,それを「まったくのよし」とする特権化をはかっているようには見えません。むしろ,それぞれの立場や想いに対するバランスのとれた視線を配っているように思います。それぞれの立場や想いに「正しい」「間違っている」という一般的な価値判断を導入していないとも言い換えられます。それは,対立と確執を導入することで,ストーリィを活性化させるという,ひとつの小説作法であるとともに,芸術活動が持つ特異性を,より鮮明に描き出すことを目的としているからではないでしょうか。
 芸術活動の特異性−それは,芸術が人間によって生み出されたものであるにも関わらず,その高みに至るためには人間以外の,あるいは「以上」の力が必要なのかもしれない,しかしそれでいながら,その力を生み出すものもまた,人間の営み以外の何ものでもないという,摩訶不思議な性質なのでしょう。

01/03/25読了

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