篠田節子『カノン』文春文庫 1999年

 大学時代の“恋人”香西康臣が自殺し,小牧瑞穂の手元には,彼が死の間際に演奏したというヴァイオリンのカセット・テープが残される。以来,彼女の耳にはその曲がつきまとい,周囲では奇怪な現象が続発する。そして康臣と無二の親友であった小田嶋正寛の様子もまたおかしくなっていく。20年の歳月を経て,康臣は彼らになにを伝えようとしているのか?

 これは「怖い」作品です。
 それは,たとえば捨てたカセット・テープにおさめられた楽曲が,録音されるはずのない別のテープに入っているとか,真夜中,夢とも現ともつかぬ中で,死んだ男がヴァイオリンを弾いている姿を目撃するとか,そういったホラー小説的な意味での「怖さ」ではありません(もちろんそれはそれで,ストーリィに効果的な緊迫感を与えています)。
 そうではなく,この作品の主人公たち―小牧瑞穂小田嶋正寛―を襲うシチュエーションが「怖い」のです。香西康臣の死と,彼が残した演奏―「反行と拡大による二声のカノン」―をきっかけとして,彼らふたりの前に(中に?)はるか過去に封印したものが姿を現します。彼らの40歳を前後する肉体の中に,20歳前後の彼らが抱え込んでいた,さまざまな情熱や愛憎,傷,希望,欲望,その他有象無象が甦ります。そしてそれは,封印してからの20年間に,彼らが築き上げてきたものを,その根底から問い直し,是正を迫るものです。

 今の自分の中に,20歳の頃に抱え込んでいた「モノ」が甦ったとしたら,作中人物と同様,わたしもおそらくパニックに襲われるでしょう。歳を重ねるということは,そういったモノたちの,あるモノは封印し,あるモノは捨て去り,あるモノとは妥協しながら,日々を送ることではないかと思います。それは「成長」「成熟」なのかもしれませんし,主人公が皮肉混じりに呟くように「薄汚れる」ことなのかもしれません。しかし,そういった過程そのものが,歳月の中で培い,築き上げてきたものに他ならないと思います。もしそれらを基盤から否定されたら・・・わたしの考え方・感じ方が保守的なのかもしれませんが,これを「恐怖」と言わずして,なんと言いましょう。

 しかしその一方で思うのです。「芸術」と呼ばれる領域は,おそらくそういった考え方や感じ方,なによりそんな考え方・感じ方の枠となる「時間」を飛び越えてしまうのでしょう。100年の単位で受け継がれ,繰り返し奏でられる曲にとって,個人の20年の歳月など,かほどのものでないのでしょう。あるいはまた,作中人物のひとりが,「技術は素晴らしいけれど,心がこもっていない」と康臣の演奏を評しますが,「時を超える」という,通常ではきわめて困難な作業を完遂するためには―「芸術」に課せられた宿命を果たすためには―,そんな個人の不安定な「心」を突き抜けた「向こう側」に行き着くことを必要とするのかもしれません。そしてそれは「天才」と呼ばれる,ごく一握りの人々にのみ許されたことなのかもしれません。
 しかし,彼らはその「天才」ゆえに,別のものを犠牲にしなければならないのでしょう。個人を,時間を超えた「高み」あるいは「奥底」に行き着くためには,「天才」を入れる器である「個人」が,「個人」であることを無視されてしまうこともまた,仕方のないことなのかもしれません。

 この作品,「ホラー」と銘打たれていますが,ホラー的素材を扱いながらも,作者が描こうとしたものは,別のものではないかと思います。スタイルもテイストも,もちろんまったく違いますが,なにか辻邦生の初期作品に通じるもの―「もの狂い」としての「芸術」―があるように感じました。

98/04/25読了

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