佐々木譲『五稜郭残党伝』集英社 1991年

 この感想文は,ややネタばれ気味です。未読の方はご注意ください。

 「朝廷に何ら天下統治の大義なし。ましてや蝦夷地に於いてをや」(本書より)

 明治2年,函館戦争は,五稜郭軍の降伏によって幕を閉じるが,降伏をいさぎよしとしないふたりの男−蘇武源次郎と名木野勇作は,五稜郭を脱出,奥蝦夷を目指す。しかし,彼らの背後には明治政府の討伐隊が迫り,行く手には苛酷な大自然が立ちふさがる。時流に逆らい,「自由」と「誇り」を求めた男たちの運命は・・・

 作者はオープニングで,北海道で,明治初期の和人と思われる墓が発掘されたというニュースを紹介しています。物語の冒頭で,このような「歴史的な断片」(事実かフィクションかはとりあえず置いておいて)を提示し,本編へと繋げていくという手法は,『ベルリン飛行指令』などでも採用されている,この作者の「得意技」と言えましょう。ですから,佐々木ファンにとっては,お馴染みであるとともに,「さぁ,はじまるぞぉ!」という高揚感を与えてくれます。

 さて本編は,『北辰群盗録』に先行する,明治初期の北海道(蝦夷地)を舞台にした作品ですが,『北辰』に比べると,よりビターなテイストが強い内容になっています。その理由のひとつは,登場するキャラクタの設定にあると思います。主人公のふたり−蘇武源次郎名木野勇作は,敗軍からの脱走兵であり,「追われる身」です。さらに彼らと合流したり,接触する人々もまた,社会的な弱者であったり,被抑圧者であったりします。たとえばアイヌの青年シルンケやアイヌと和人とのハーフヤエコエリカ。彼らの言動や体験を通じて,アイヌに対する和人の苛烈な差別と支配とが描き出されていきます。また長崎から来た「隠れ切支丹」の入植者たち。彼らにとって「明治維新」とは,輝かしい近代の到来などではなく,新たな弾圧の始まりでしかありません。アイヌたちを率いて函館へ向かう僧玄真も,みずから「破戒僧」と名乗るように,既成の宗教集団からのはみだし者です。
 「辺境において社会の矛盾が凝縮して現れる」という言葉を聞いたことがありますが,作者は,脱走兵や被抑圧民族・集団といった社会の「周辺」(それは「底辺」と限りなく近いです)にいる人々の軌跡を重ね合わせることで,「日本近代の闇」を浮かび上がらせています。
 そして,その「近代」を象徴するのが,蘇武や名木野を追う討伐隊の隊長隅倉兵馬です。長州出身で軍人としてエリートの道を歩む彼は,討伐をみずからの出世の具とする野心に満ちた人物です。彼は,ふたりの脱走兵を追いながら,彼らに協力した人々,接触した人々−「隠れ切支丹」の入植者たち,僧・玄真,山中に隠れ住む元鷹匠の鎌田弥右衛門などなど−を残酷に虐殺していきます。それは,隅倉の個人的キャラクタに由来するとも言えますし,主人公たちとのコントラストを強調するという,物語作法上のテクニックでもありましょう。しかしそれとともに,異質な者を認めず,徹底的に排除していこうとする近代国家がどこでも持っている性格が,端的に現れているとも言えましょう。
 物語は,そんな蘇武&名木野VS隅倉の対立を軸にしながら展開しますが,作者はその中に,『北辰』と共通する「和製西部劇」的要素をふんだんに盛り込みます。その点,この物語はファンタジックな部分を持っているともいえます。しかし,最終的に作者は,物語を「ファンタジィ」というより「歴史」に着地させます。冒頭で示された「和人の墓の主はじつは・・・」という形でのツイストも可能であったストーリィを,「歴史」の枠組み−明治政府による五稜郭残党の徹底的な討伐,さらに北海道へのより強力な支配−へと回収していきます。それゆえ結末は,カタルシスよりもむしろ苦味のある,それゆえに重厚なものになっていると思います。そこにはまた,この作者の「歴史」に対する真摯な姿勢と眼差しが感じ取れます。

01/04/30読了

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