仁賀克雄編『幻想と怪奇 2』ハヤカワ文庫 1976年

 「ことによると子供というものは,穏やかな,満足した笑みを浮かべていながら,なお身内のどこかでは,小さな狂気の蛆虫をはぐくんでいることができるのかもしれない」(本書「なんでも箱」より)

 アンソロジィ・シリーズの第2集。11編を収録しています。

リチャード・マシスン「こおろぎ」
 男がこおろぎを嫌悪し,避ける理由は…
 「狂気と思われていたのがじつは…」という,ホラー小説の定型パターンに則った作品ですが,それを「こおろぎ」という日常的な(そして日本でいえば「風情のある」とされる)アイテムに着目した点が,本書の面白味でしょう。
ゼナ・ヘンダースン「なんでも箱」
 内気な少女が,いつも“見ている”ものとは…
 子ども特有の「思いこみの強さ」が,「狂気」へと転落する…そのギリギリの崖っぷちを描きながら,じつにナイーヴなファンタジィへと仕立てています。抑制のきいた描写が,読者の想像力を刺激し,一方で,冒頭に引用したようなアフォリズムめいたセリフを入れることで,リーダビリティを高めています。
シオドア・スタージョン「それ」
 “それ”は,森の中で生まれた…
 「命名」が,人間の認識の第一歩であるとするならば,モンスタを“それ”という指示代名詞で呼ぶことは,人間にとっての「認識不可能性」を強調する点で,有意味なものでしょう。モンスタの「正体」と特定しながらも,「なぜ」に言及していないこと,あるいはまた“それ”そのもの自己認識を曖昧なままにしておいていることも,そのことを支えているように思います。
ロバート・ブロック「ルーシーがいるから」
 夫と医師によって閉じこめられた“わたし”。でも大丈夫,ルーシーがいるから…
 素材的には,いまではレトロな観がまぬがれないものの,小出しの描写を積み重ねながら,カタストロフへと導いていくストーリィ・テリングの巧みさは,さすがにこの作者です。
ヘンリー・カットナー「その名は悪魔」
 いつのまにか家庭に紛れ込んだ“偽の叔父”に対して,子どもたちは…
 大人が認識できないモンスタを,子どもが気づき,孤立無援のまま対決を迫られる,というパターンは,ホラー作品において,伏流のごとく存在し続けるものでしょう。なぜなら“子ども”もまた,大人には理解し得ない“人外”のものだからでしょう。読者の視線をミス・リーディングしながら,苦笑を誘うラストに着地させるところが巧いです。
クリフォード・D・シマック「埃まみれのゼブラ」
 机にできた“点”を介して,“わたし”は奇妙な取引をはじめるが…
 星新一の有名なショートショート「おーいでてこーい」を連想させる作品です。星作品が,日本人特有の「無責任さ」を表しているとしたら,こちらは,いかにもアメリカ人をカリカチュアしたスラプスティクのように思えます。
レイ・ブラッドベリ「トランク詰めの女」
 屋根裏部屋で少年は,トランクに詰められた女の死体を見つけ…
 子どもの視線というのは,前掲作「その名は悪魔」のように,「真実」を見抜くものである一方,現実と虚構とを混交してしまうという不安定さをも兼ね備えています。そんな子どもの視線が産み出す不安感,幻想性を描くことにかけては,この作者の独壇場といえましょう。ただプロット的には,同じ作者の別の作品(「泣きさけぶ女の人」<ネタばれ反転)と同工異曲の観もあります。
デビッド・イーリイ「裁きの庭」
 貧しい老退役軍人は,骨董商を騙したその絵を手に入れるが…
 編者がコメントしているように,オーソドクスな絵画怪談ですが,画家の「奇妙な習慣」を設定している点が,本編のミソなのでしょう。また主人公の現実味を帯びた犯罪も,作品の暗いトーンを巧く醸し出しています。
ローズマリー・ティンパリイ「ハリー」
 『ロアルド・ダールの幽霊物語』所収。感想文はそちらに。
パトリシア・ハイスミス「かたつむり」
 幻の巨大カタツムリを探しに,南海の孤島に博士は単身渡るが…
 往年の円谷プロ謹製の特撮映画です(笑)(世代的には,やはり『ウルトラQ』「宇宙からの贈り物(ナメゴン)」を思い出しますよね) この作家さんは,ミステリ作家というイメージが強かっただけに,こういった作品も書いていたのかと,意外でした。
レイ・ラッセル「宇宙怪獣現わる」
 夢の中の映画館で,“わたし”が見た映画とは…
 作中作の映画は,通俗SFホラー(ご都合主義付き(笑))のパロディっぽくて楽しめましたが,ラストはシュールすぎて,正直よくわかりません(^^ゞ

04/04/11読了

go back to "Novel's Room"