ロバート・J・ソウヤー『フレームシフト』ハヤカワ文庫 2000年

 不治の遺伝病ハンチントン病に冒された遺伝学者ピエールは,ヒトゲノム・センタで,遺伝子解読に没頭していた。そんな彼は,ある夜,ネオナチの暴漢に襲われ殺されそうになる。いったいなぜネオナチが自分を狙うのか? さらに彼の周囲で連続して殺人事件が発生! しだいに彼はその渦中に巻き込まれていく・・・

 この作者の作品は,『さよならダイノサウルス』に続いて2作目です。

 本書では,ふたつの,不条理とも言える「悲劇」が描かれます。ひとつは,主人公ピエール・タルディヴェルを襲う遺伝病ハンチントン舞踏病です。ハンチントン病を遺伝子的に受け継いでいるかどうかの確率は50%,自分が受け継いでいるかどうかを判定する方法は確立されていますが,その治療法はいまだ発見されていないという病気です。ピエールは,実の父親がハンチントン病であることを知ったときから,遺伝子研究に没頭します。残された時間をそれに捧げようとします。
 この主人公の内的な悲劇と対置されるのが,ナチスによるユダヤ人虐殺という外的な悲劇です。冒頭で描かれるトレブリンカ収容所のシーンがショッキングです。そしてその悲劇は,“恐怖のイヴァン”と呼ばれる残虐な人物に結晶化されています。そしてその“イヴァン”は逮捕されることなく,物語の舞台である“現在”,名を変え身分を変え潜伏していることが示されます。
 「遺伝子」と「ナチス」とを結びつけた作品と言えば,解説で我孫子武丸が指摘しているように,ある著名な作品を連想しますが,この作者は,両者をストレートに結びつけるのではなく,大きく迂回させながらふたつをつなぎ合わせます。その「迂回路」とは,遺伝学者ブリアン・クリマスコンドル保険会社などです。もちろん,フィクションである以上,そこには具体的な結びつきが設定されるのですが,それだけでなく,前者の,人間を実験動物のように扱う酷薄さや,後者の,経済効率の名の下に遺伝病患者を拒絶し,排除する姿は,ナチスの非人道性に響き合うものがあります。ピエールは,彼らと,不本意な形で関係することで,本書のメインの謎である「“恐怖のイヴァン”はどこにいるのか?」「なぜピエールはネオナチに狙われるのか?」へと迫っていきます。
 さらに,これらの迂回路を経てストーリィが展開していく過程で,遺伝病に直面した人間心理,血のつながらない「家族」の問題,生命倫理の問題など織り込んでいき,物語に厚みを与えています。ただ,『ダイノサウルス』に比べると,その重厚さと引き替えに,やや冗長なところがあるように思えますが,やはりストーリィ・テリングの巧みさは十分に発揮されており,謎や手がかりを小出しにしていきながく,ぐいぐいとストーリィを引っぱっていきます。とくに冒頭シーンの「つかみ」は上手ですね。またピエールとモリーの娘アマンダをめぐる謎が明らかにされるところも伏線が効いているとともに,背後にある「意図」に「ぞくり」とくるものがあります。

 この作家さんには,『ターミナル・エクスペリメント』や,(いま品切れ中らしいですが)『ゴールデン・フリーズ』といったSFミステリがほかにもあるとのこと。楽しみです。

00/05/05読了

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