小松左京『物体O(オー)』新潮文庫 1977年

 「――女の気まぐれによって,世界が破滅したとしたら――何と美しいことだろうか。」(本書「物体O(オー)」より)

 10編を収録した短編集。いずれも「古い作品」です。文庫版でさえ24年前,巻末の書誌データを見ると,収録作品は1960年代に発表されています。にもかかわらず,この新鮮さはいったいなんなのでしょう? いやさ,新鮮さというよりも,「現在」に対する恐ろしいまでのリアリティはなんなのでしょう?

 たとえば表題作「物体O(オー)」は,ある日,突然出現した巨大リング状物体“O(オー)”によって,日本の大半が壊滅状態になり,リングの内側で生き残った人々は,外部から完全に遮断された状態になります。たしかに設定は奇想天外なものですし,また“O(オー)”の「正体」も苦笑させられるものであります。しかし,リング内での人々の姿は,まさに近年喧伝されている「危機管理」そのものと言えましょう。この作者ほど,「危機管理」の重要性と困難さをフィクションという形で描いてきた作家さんもおられないのではないでしょうか。『日本沈没』しかり,『首都消失』しかり・・・この作品は,その短編版。一部の地域が外部からまったく隔絶したら,という,一種のシミュレーション小説とも言えます。
 また「あれ」では,正体不明の,「あれ」としか呼びようのない存在が登場します。「あれ」を見た人間は,拭いがたい脱力感と虚無感に襲われます。そして「あれ」を見た人間が,主人公ひとりではなく,周囲に数多く存在することがわかり・・・と展開していきます。明確に特定できるトラブルでも不安でもない,漠然としていながら,しかし,抗しようのないほどの「力」を持った「あれ」。なんとかしなければならない,という想いはありながら,どうしようもない,という諦念と無力感。この作品,30年以上前に発表されたこの作品の持つ手触りに,「現在」の日本を覆う「閉塞感」との類似性を感じ取るのはわたしだけでしょうか?
 「近代化」した隣国に侵略されそうになった小国が,奇想天外な方法で撃退するという「イッヒッヒ作戦」は,前半,主人公のモノローグで占められるという,お話づくりとしてはけっして良いものではないと思いますが,そこに込められたメッセージは,今でも十分に通用するものだと思います。とくに「「先進地域」内部のニュースが「先進地域」内でだけ意味がある,という事を,ほとんどの奴は知らない」「自分たちのうるさい「問題」にみちあふれた世界だけが「世界」だと思いこんでいる」といったセリフに意味されるものは,高度情報社会だといい,IT革命だという「現代」でも,けっしてなくなったものではないでしょう。そしてギャグ調のエンディングは,そんな「世界」外からのささやかな「反撃」なのかもしれません。
 さらに「返還」「骨」で描かれている,人類の歴史に対する痛烈な皮肉は,時代を超えて,人間の愚かしさを嗤い続けるものといえます。皮肉といえば,「フラフラ国始末記」もまた,「“国”なんて,簡単にできちゃうんだよ」といった具合のカリカチュアなのかもしれません。
 この作者のSFが持つ「文明批評」的な側面が,色濃く出ている短編集ではないかと思います。

 このほか,男女の立場が逆転した世界のアイロニカルな巡り合わせを描いた「ダブル三角」,すべてが先に先にという風潮のグロテスクなパロディ「先取りの時代」,「パラレル・ワールド」ネタをもうひとひねりした「墓標かえりぬ」などは,SF的着想が楽しめる作品です。

01/11/21読了

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