三遊亭円朝『怪談牡丹灯籠』岩波文庫 1955年

 浪人の萩原新三郎は,ふとしたきっかけで飯島家の娘・お露と出会い,相思相愛に落ちるが,新三郎に恋いこがれたお露は亡くなってしまう。一方,飯島家では,主人・平左衛門の愛妾・お国が,密通している源次郎とともに,よからぬ企みをへだて…

 死霊との“妖恋”を描いた本編は,「四谷怪談」「番町皿屋敷」とともに「日本三大怪談」と呼ばれています(もっとも,とある大学の日本文学の先生がエッセイで書いていたのですが,最近の学生さんにとって,「お岩さん」よりも「貞子」の方がメジャーのようです(笑))。おそらく何度も映画化されているのでしょう,「からーん,ころーん」という下駄の音,闇の中に浮かび上がる牡丹文様の灯籠といった映像が,子どもの頃のわたしに,ぞくぞくするような怖さを与えたことを覚えています。つまり「牡丹灯籠」と言えば,新三郎とお露の妖恋,というイメージがインプリンティングされているのです。
 ところが,今回,全編を読んでみて驚きました。たしかに新三郎=お露の物語が描かれ,重要なパーツを構成しているのですが,それが「すべて」ではないのです。むしろ「飯島家をめぐるふたつの奇談」のひとつとして設定されています。そのもうひとつは「仇討ち」で,物語の後半は,それがメインとなっています(新三郎=お露の「後日談」も絡むのですが)。
 飯島平左衛門の妾お国は,愛人の源次郎と謀って,平左衛門を亡き者にしようとしますが,平左衛門の草履取り孝助がそれを聞きつけ,なんとか阻止しようとします。しかし,思わぬ展開の末に,平三郎は死に,お国と源次郎は出奔,孝助が跡を追う,とストーリィは転がっていきます。いわば「欲」と「忠」と「孝」が絡み合いながら物語は進展していきます。
 ここでおもしろいのは,「忠」や「孝」に二重三重に「ひねり」を聞かせている点でしょう。たとえば孝助にとって,主君の平左衛門は「忠」の対象ですが,同時に,孝助の実父を殺した仇(=孝)でもあると設定されています。つまり「忠」と「孝」との確執が存在するわけです。さらに「誰に忠義を尽くすべきか」「誰を孝の対象とするか」といった登場人物のそれぞれの判断により,物語は二転三転していきます(とくに孝助が仇ふたりに追いつきそうになるクライマクスなど)。つまり,基本的には「欲」vs「忠」「孝」をベースにしながらも,「忠」や「孝」を重層的に,ときに相反するものとして設定することで,単調になりがちな「仇討ち」のストーリィを,より広がりのある物語へと仕立てています。
 あるいはまた,「欲」「忠」「孝」,それに新三郎とお露の「恋」は,江戸時代(あるいは明治の初め頃)の人々にとって,もっとも理解しやすい人間の行動原理であったのでしょう。ある意味,類型化されていると言えば類型化されてはいるものの,通俗文学においては,なによりも読者(あるいは視聴者)の感情移入が求められますので,そこらへん時代にマッチングしたものだったのだと思います。
 ただまぁ,その類型化が,今の目からすると,ちと物足りないのは致し方ないでしょうが。

 近年の映画化作品については,「原作先行主義」のわたしではありますが,やはり「見ると読むとでは大違い」ということは,今も昔もあるのですね。

05/03/28読了

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