藤沢周平『暗殺の年輪』文春文庫 1978年

 デビュー作を含め,この作者の初期短編6編をおさめた作品集です。本書の「解説」ではじめて知ったのですが,この作家さん,デビューは40歳を過ぎてからなのですね。そのせいでしょうか,初期からすでに文体は円熟ともいえそうな完成度を持っているように思います。

「黒い縄」
 出戻りのおしのが,十数年ぶりに幼なじみの宗次郎と再会したことから…
 おそらく今の時代より「出戻り」に対する「風当たり」は,はるかに強かったでしょう。そんな社会的・心理的に不安定な立場にある主人公を設定することで,作品全体に先行き不透明感を与えています。さらにそこに3年前の殺人事件の謎,犯人とされた宗次郎を執拗に追う老岡っ引きの執念を輻輳させることで,濃密な緊張感のある短編に仕上げています。
「暗殺の年輪」
 突如,中老暗殺を依頼された馨之介。その理由は,18年前の父親の死に隠されていた…
 藩内政争に翻弄される若き侍の姿を描いています。「巧いな」と思ったのは,馨之介に,藩の家老たちが暗殺を依頼するシーン。そのひとりが彼に向かって「これが,女の臀ひとつで命拾いしたという伜か」と野卑な言葉を発します。この一言によって,彼らがいかにみずからの「正義」を語ろうとも,その背後にある「邪なるもの」が見え隠れし,この作品を覆うトーンを冒頭から示唆しています。会話を上手に用いるこの作者の技量と言えましょう。なお本編は1973年上半期の直木賞を受賞しています。
「ただ一撃」
 士官試合で,藩の使い手をつぎつぎと撃ち破った剣士。彼を叩きのめすために選ばれたのは…
 武の時代から平和な時代への端境期,それは一部の侍たちにとって受難の時代なのでしょう。その受難を清家猪十郎刈谷範兵衛というふたりの剣客の生き様,そして範兵衛の息子の嫁三緒の非業の死に結晶化させているように思われます。内に戦国時代の「凄絶さ」を秘めながら老いていく範兵衛の姿は,去りゆく時代の残光なのかも知れません。
「溟い海」
 流行の絵師・葛飾北斎は,若い絵師・安藤広重の噂をよく耳にするようになり…
 この作者のデビュー作だそうです。葛飾北斎が抱え込む「闇」−画壇への羨望,新人への嫉視とみずからの老いへの焦りなどなど−を,冷徹とも言える視線で剔りだしています。また北斎が,人として,絵師としての「最後の一線」の手前で踏みとどまったのは,エリートと思いこんでいた安藤広重に,自分と同じ「人間」−苦悩と憔悴を抱え込んだ「人間」−を見いだしたからなのでしょう。本編でも,侍ではありませんが,似たような「凄絶さ」が描かれています。
「囮」
 下っ引きをつとめる版木彫り職人・甲吉は,ひとりの女の張り込みを命ぜられるが…
 「彫師伊之助捕物覚え」のプロト・タイプのような作品です。「囮」であるはずのおふみへの甲吉のせつない想いと,それを踏みにじる非情な罠とのコントラストが鮮やかに描かれています。またこの作家さんの情景描写の巧みさは,全作品に通じるものがありますが,とくに本編のラスト・シーン−靄が漂う江戸の街,そして甲吉の問いに答える女たちの姿−は,もっとも秀逸なものと言えましょう。

01/06/27読了

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