吉村昭『海の祭礼』文春文庫 2004年

 嘉永元年(1848),ひとりのアメリカ人青年が,蝦夷(北海道)の利尻島に“漂着”した。彼の名はラナルド・マクドナルド。“幻の日本”に憧れて上陸した彼は,しかし,鎖国の法に従い,長崎へ護送される。監禁されながらも穏やかな態度の彼は,そこで若き蘭語通詞・森山栄之助と出会う。マクドナルドのわずか1年の日本滞在は,幕末の歴史を大きく変えることになる…

 1853年のアメリカ・ペリー艦隊の来航に端を発する,激動の幕末外交史の最前線において,通訳森山栄之助が大きな役割を果たしたことは,以前,なにかの本で読んだことがあります。国家間外交における「通訳」が,単なるコミュニケーションの補助としてだけでなく,きわめて鋭敏な外交センスを必要とすることは言うまでもなく,そこに長崎のオランダ語通訳である彼が関わることは,ごく自然なことと考えていました。
 ところが,本書を読んで,その森山の歴史の最前線への登場に,ひとりの,語弊を恐れずに言えば「酔狂な」アメリカ人青年が関わっていたことを知り,「歴史の偶然」のなせる技に深い感銘を受けました。

 ラナルド・マクドナルドは,白人とアメリカ先住民とのハーフで,白人社会のアメリカに幻滅し,同じモンゴロイドの血をひきながら白人の来航を断固として拒絶する日本に憧れます。それはきわめてロマンチックなものでしょうし,あるいはまた,当時の日本に密入国することは,「クレイジー」と言われても仕方ないことでしょう。
 しかしラナルドの「酔狂さ」は,長崎での森山との出会いへと結びついていきます。通詞の任にありながら,実際のアメリカ人を前にして,自分の英語力の足りなさに忸怩たるものを感じていた森山は,日本語を覚えようとしているラナルドとともに,英語の習得に邁進します。通詞としての矜持と使命感,そしてなにより「未知なる言語」を覚えようという情熱に燃えながら英語を勉強する森山の姿は,穏やかで理知的なラナルドのそれと響きあい,じつにすがすがしいものがあります(ラナルドの言動は,同時期に長崎に護送され,役人をさんざんてこずらした「ラゴダ号」の一行や,のちのペリーハリスの高圧的な態度と鮮やかなコントラストをなしています)。
 そして前半のクライマクス,突如訪れたアメリカ船により,日本を退去することとなったラナルドと森山との別れのシーンも,この作者の淡々としたタッチで描かれながらも,じんと来る感動的なものです。歴史の大きなうねりに翻弄されながらも,個人と個人の出会いを美しく描いている点は,地震で破損したロシア船の建造を描いた「洋船建造」に通じるものがあるように思います。

 物語の後半は,その森山が活躍する幕末の対外交渉を描いていきます。とくにペリーとのやりとりは,超絶級とも言える国難をともなっているだけに,緊張感あふれるものです。その中で興味深いのは,幕府の対応でしょう。たしかに,相も変わらぬ「引き延ばし策」でどうにかしのごうとするところは情けないものの,明治以後,ことさらに強調された気配のある「無能な幕府」というイメージを裏切るものがあります。帰国した「ラゴダ号」一行によるネガティヴ・キャンペーンに基づいて日本を非難するペリーに対し,きちんと「ラゴダ号」一行の無法ぶりを告げる林大学頭は,なかなかどうして,立派なものです。またペリーの対日姿勢に,前半のストーリィが絡んでいるところは,とてもおもしろく読めました。
 それにしても,この森山栄之助,維新後は,最前線から離れるだけでなく,急速に老衰し,死んでしまうというのは,あまりに痛々しいですね。それだけ幕末の対外交渉がハードで,彼の命をむしばんでいたのではないかと思います。

 いずれにしろ,幕末外交史という華やかな舞台の裏で,ラナルド・マクドナルドという「酔狂な」アメリカ人青年が果たした役割を掘り起こすとともに,歴史の偶然がもたらした人間同士の美しい結びつきを描いた本編は,歴史小説家としてのこの作者の面目躍如と言えるものでしょう。

05/01/31読了

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