皆川博子『花闇』集英社文庫 2002年

 「役者にとって何よりの甘美な毒は,舞台に立って見物衆に己が身をさらす,そのことにあると,彼は思い知らされた。この味を知ってしまったら,逃れようがないのであった」(本書より)

 頃は幕末,江戸の民衆に絶大な人気を誇る名女形がいた。彼の名は澤村田之助。高慢で傲岸不遜ながら,その才能は卓抜なものであり,また「芸」にかける心意気,執念は人後に落ちない歌舞伎役者である。だがその最盛期,彼は不治の病に冒され,両脚を切り落とさざるを得なくなる。しかし彼の舞台にかける思いは,衰えることを知らず…

 打ち上げ花火が美しいのは,背景に闇があるからです。夜の闇が濃いほど深いほど,打ち上げ花火はその美しさ,華やかさを増します。日常生活の中に置かれたら,毒々しいまでの紅色や,鮮やかすぎる黄色などの色彩は,夜の闇を背負うことで,この世ならぬ華美を産み出します。
 本編の主人公澤村田之助(由次郎)とは,そんな江戸の「闇」に咲いた「花火」なのかもしれません。いや,江戸時代において「芝居」そのものが「闇」のものだったのでしょう。作中,歌舞伎を取り巻くさまざまな闇が描かれます。たとえばその「闇」とは,役者はほとんど同時に「色子」(男娼)であったり(当時,男娼のことを陰間と呼んでいたことと通じるでしょう),あるいはまた狭い人間関係の中で繰り広げられる愛憎劇であったりします。
 しかしそれ以前に,幕府は芝居を闇の中に押し込めようとします。幕府は芝居小屋を三座に制限し,また役者たちが「役に立たない者たち」「卑しい者たち」という立場であることを,繰り返し,彼らに自覚させようとします。幕府が力を失い,世情不安になればなるほど,締め付けは厳しく,いわば「闇」は凝縮されていきます。その凝縮された「闇」ゆえにこそ,田之助の芝居は輝きを増し妖しさを放つのでしょう。
 それゆえに,登場人物のひとり月岡芳年の次のセリフは意味深長です。
「澤村田之助が脚を切った。その年に,徳川幕府は滅びたのだな」

 明治の世になると,芝居は「闇」から「解放」されます。その象徴が,河原崎権之助(権十郎)による新富座の設立でしょう。かつて田之助から「大根」と罵られていた彼は,新しい時代の「演劇人」としての道を歩み始めます。「闇」の中で「卑しい者」として,それこそ「卑しい町人たち」を相手にしていた「芝居」は,明治政府の重臣たちの肝いりによる「演劇」へと姿を変えていきます。「闇」の中では「鈍重」であった権之助の芝居は,「昼」の光の中では「重厚」と呼ばれるようになります。
 たしかに田之助の脚の切断と幕府の瓦解とは,何の関係もないでしょう。年が同じなのは,偶然といってしまえばそれまでです。しかし田之助の「役者生命」が終わりを告げるとともに,江戸時代が終焉を迎えたことは,ともに「ひとつの時代の終わり」として共鳴しあうものがあり,「闇」を背負うがゆえに,より華やかに,より鮮やかに花開いた「花火」は,その「闇」が消えるとともに,色あせていくのもまた宿命なのかもしれません。

 花火の美しさは,「闇」の存在とともに,もうひとつ,その「短命さ」にあります。一瞬,夜空を染め上げ,ふたたび闇の中へと沈んでいく,その時間の短さ,はかなさ,そして見る者の網膜に焼き付いた残像がもたらす余韻こそが,花火の持つ美しさの「秘密」なのでしょう。
 幕末の,凝縮された「闇」の中に大輪の花を咲かせながらも,わずかの間に,ふたたび「闇」の中へと姿を消していく…そんな意味でも,澤村田之助とは「花火」そのものなのでしょう。

 ところで文庫の装画は,『うろこの家』で,この作者と艶やかな競演を果たした岡田嘉夫です。

03/01/03読了

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