皆川博子(文)・岡田嘉夫(絵)『うろこの家』角川ホラー文庫 1993年

 その昔,とある画の名人が描いた龍には黒目が入っていなかった。それを見た凡夫が,名人ともあろうものが,と,黒目を入れたところ,絵の龍は現し身と化し,天に昇り去ったという話を聞いたことがあります。
 絵の担当,岡田嘉夫の描く人物には,いずれも黒目がありません。三日月のごとく細いまなこは,白く,そして空虚です。黒目を入れた龍が現し身と化すならば,黒目のない彼らはけして現し身ではありえません。人の姿を借りた,人ならざるものたちです。口元に人ならざる笑みを浮かべた,異形のものたちです。
 本書は,そんな人ならざるものたちの闇の交歓を,艶やかに,淫らに,物狂おしく描いた12編をおさめた短編集です。

 たとえば「第壱話 沼太夫」では,漂泊の絵師が遭遇した怪異が描かれます。一夜の宿を借りた陋屋で,女の弾く三味線の音に,背丈一寸の花魁道中が現れます。女の最後の一言で,絵師が異界へと投げ込まれます。「第参話 朱鱗の家」の主人公は,妾に入れあげて家に帰らぬ父親を捜しに,女の家を訪ねます。家の庭には池があり,女が足指を水に浸すと,ついと緋い鯉が唇を指に寄せます。女の話を聞くうちに,息子はいつしか池の中,父親とともに女の足指を求めます。女が池に足を浸すシーンが,なんともエロチックです。また「第四話 傀儡谷」では,源氏に囚われそうになった平家の御曹司の身代わりが,菖蒲に姿を変えた蛇に匿われるというお話。「第六話 朧御輿」では,寝たきりの少女が手にする鏡には,真夜中の幻の御輿と愛しい男の背中が浮かび上がります。そしてひとつの屋根の下で繰り広げられる愛憎劇を描いた「第拾壱話 寵蝶の歌」では,生者と死者とがその境を越えます。読み終わってから,冒頭の「お雛さまが,三千代のかわりに,見ていてくれるのです」という一文に「ぞくり」ときます。
 人と人ならざるものが,容易に入れ替わり,混じり合い,溶け合うこれらの物語は,いずれも背筋に冷たいものが流れるような,そんな凄みと怖さを秘めています。

 そして人ならざるものの物語は,いともたやすく,時と土地を飛び越えていきます。「第弐話 崖楼の珠」は,清朝末期,西太后によって九重の玉を作れと命ぜられた細工師の苦悩と狂気が語られ,「第七話 水恋譜」の舞台は朝鮮です。甘やかされて育ったエリート官僚は,幼い頃の罪のため,箪笥の引き出しの中の池へと引き込まれます。「第八話 隻笛(つれぶえ)」は琉球の,「第九話 孔雀の獄」のインドの恋の物語です。とくに後者の,亡王の后であった女囚と身分卑しき牢番との嗜虐的な“恋”は,鳥肌がたつほどに,淫らで陰惨で,それでいて妖しい光芒を放っています。
 異形のものたちにとって,時間も空間も単なる約束事にしか過ぎないのでしょう。時間と空間に縛られた愚かな人間たちが勝手に定めた,かりそめの約束事にしか・・・・。あるいは,「人ならざるもの」とは,人自身の中に棲んでいて,人のいるところ,必ず現れるのかもしれません。

 作者たちの「あとがき」によれば,7編は文章が先行し,5編は絵の方が先にあがり,その後に文章をつけたそうです。ですから,本書は,文章が「主」で,絵が「従」といった関係にあるのではなく,まさに両者のせめぎ合いの中から生まれた作品といえましょう。
 できれば,草木も眠る丑三つ時,たったひとりで読むことをお薦めします。

98/03/24読了

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