宮部みゆき『蒲生邸事件』カッパ・ノベルズ 1999年

「タイムトリップの能力を持つ者は,いわば,まがいものの神なんだ」(本書より)

 1994年2月26日未明,ホテル火災に巻き込まれた受験生・尾崎孝史は,謎の男に助けられ,時間を超える。彼らが降り立ったのは,58年前の2月26日,「二・二六事件」直前の雪降りしきる東京だった。日本の歴史のターニング・ポイントとなった4日間,孝史が見たものとは・・・

 『鳩笛草』『クロスファイア』など,本人の意図とは関係なく「超能力」を持ってしまった人々の孤独と哀しみを,しばしば題材として取り上げるこの作者が,この作品で選んだのは「時を超える能力」です。ただし,この作者の他の「超能力もの」とは,ややニュアンスが異なるように思います。
 まず,この物語では,他の作品同様,超能力者の苦悩―「歴史的事実」は変えることはできても「歴史」そのものは変えることができない無力感,虚無感―が,超能力者によって語られはしますが,超能力者自身が主人公ではなく,偶然,その力を持つ者によって,半世紀前へと連れて行かれた少年の視点がメインとなっています。また,この「時を超える能力」に対する評価も,同じ能力を持っている人間によって異なります。さらに超能力者の力によって未来を知ってしまった人間たち(それは「未来人」である主人公も含まれます),「知ってしまったこと」に対する考え方の違う人物たちを,複数配しています。
 ですから,本書では,「超能力」あるいは「超能力者」よりも,その「超能力」に接した「超能力を持たない普通の人々」を描き出すことに,力点が置かれているように思います。つまり「時間を超える能力」という設定が,「時間を超えることのできない人々(=わたしたち)の姿」を浮き彫りにするという仕掛けです。そして,「時間を超えないこと」「未来を知らないこと」(作中の言葉を使えば「抜け駆け」しないこと)こそが,「人間」であること,(冒頭の言葉にあるように)「まがいものの神」ではないことを描き出しています。「未来を知ってしまった」人物のひとりはこう言います。
「だが僕はこの時代の人間だ。この時代をつくっている臆病者のひとりだ。そして,臆病者としてこの時代を生き抜く義務がある。これから先何が起ころうと,僕は必ず生き抜いてみせる」
と。
 未来を知ることのできない人間にとって,生まれる時代を選ぶことのできないに人間にとって,「時間を超える能力」はきわめて魅力的なものです。それは「神」にも近いものなのかもしれません。しかしその能力を(間接的であれ直接的であれ)手に入れてしまうということは,「人間」としてなにか大きなものを欠落させてしまうこと,「神」としてだけではなく,「人」としても「まがいもの」になってしまうことなのかもしれません。

 ストーリィ展開は,さすがにこの作者らしいスムーズなものです。突如,戦前に連れてこられた主人公の困惑や疑念,そんな主人公が「なぜこの世界にしばらくとどまろう」と決意するかという理由づけ,蒲生邸で起こる謎の「大将自決事件」・・・と,トントン拍子に進んでいきます。さらに,現場には「自決」に用いたはずの銃が無く,事件は殺人の可能性を帯びる,周囲は叛乱軍により制圧され,いわば「クローズド・サークル」,犯人は屋敷内にいるはず・・・とミステリアスに展開。また,この事件は,「時間を超える能力」を持った者による犯行なのか,それとも普通の人物によるものなのか,「ミステリ的決着」と「SF的決着」とを両方提示することにより,サスペンスを盛り上げています。そして意想外な着地と,余韻を持ったエンディング。それなりにヴォリュームを持った作品ではありますが,ぐいぐいと一気に読み進められるあたり,やはりこの作者,卓越したストーリィ・テラーですね。

98/01/31読了

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