植芝理一『ディコミュニケーション<精霊編>』全3巻 講談社 1999・2000年
植芝理一『夢使い』1・2巻 講談社 2001・2002年

 三島塔子・三島燐子・橘一…この3人は,古代の呪術集団“遊部”の末裔。冥界からの“魔”を打ち払う“夢使い”。不可思議な術を使って,今日もまた,“悪夢”に悩まされる人々を救いに行く。邪悪な“魔”に対峙したとき塔子は叫ぶ! “さぁ,遊ぶわよ!”と…

 この両作品を未読の方は,なんとも変則的とお思いになるかもしれませんが,既読の方であれば,一緒に感想文をアップすることに,ある程度納得いただけるのではないかと思います。この作者のデビュウ作である『ディスコミュニケーション』と,2002年4月現在連載中の『夢使い』は,もちろんそれぞれ別個の作品ではありますが,ただ『精霊編』に限って言えば,両作品の橋渡し的な存在であり,個人的にはむしろ『精霊編』は,『夢使い』のプロローグ的な位置づけにあたるのではないかと思います。なにしろ『ディスコミ』と名を冠しながらも,『精霊編』で活躍するのは『ディスコミ』の主人公松笛戸川のコンビではなくて,『夢使い』の三島塔子・燐子なんですから…(ただ『精霊編』と『夢使い』では,メイン・キャラの設定が多少変更されていますが…)

 さて『ディスコミ』は,連載当初は「ちょっと奇妙なラヴ・コメディ」といったノリだったのですが,途中の「冥界編」から,人間の深層心理の中で繰り広げられるオカルティックな展開へとシフトしていきます。中沢新一あたりからの影響が強そうな密教ネタやユング派の精神分析ネタなどが絡んで,けっこうハードに物語は進行していきます。で,その「冥界編」が幕を引くと,一転,登場キャラのひとりが「あの冥界編の重厚さはどこへ行った」と吐息をつくような(笑),えらい軽いスラプスティクなテイストへと変化していきます。正直,「冥界編」がけっこう好きだったわたしとしては,この「転向」に付いていけなく,今回取り上げる「精霊編」に立ち至る前に読むのをやめてしまいました。
 しかし,『夢使い』と『精霊編』を読むと,この『ディスコミ』の「転向」に見えた前半と後半との「落差」は,じつは相通じるものがあるのではないかと思うようになりました。後半でのスラプスティクな展開において素材とされていたのは,多くが,ホモ・セクシュアル,レズビアン,フェティシズム,女装趣味,インセスト,ロリータ・コンプレックスといった「マイナー・セクシュアリティ」です。このようなマイナー・セクシュアリティは,オカルティズムなどともに(少なくとも現代において)「マイノリティ」「境界性」「周辺性」という点において親和性があるモチーフと言えましょう(それはたとえば奥瀬サキ『低俗霊狩り』において,霊能師流香魔魅が,「副業」としてアダルト・ヴィデオの評論をやっているという設定とも響き合います)。いわば,マジョリティである「ノーマル」と呼ばれる人々の目からすれば,ある種の「いかがわしさ」「うさんくささ」を持った存在なのでしょう。しかしその「周辺性」こそが,「ノーマル」「マジョリティ」にはない「力」を発揮する根拠となるわけです。
 このような『ディスコミ』において分割されていた「オカルティズム」「精神分析ネタ」と,「マイナー・セクシュアリティ」とを,「夢使い」というキャラクタを創造することでミックスさせたのが,『精霊編』であり,『夢使い』なのではないかと思います。

 ただしその一方で,『精霊編』『夢使い』においてクローズ・アップされているものに,アクション性があります。『ディスコミ』では,「冥界編」クライマクスで松笛のアクション・シーンがいくつか挿入されるものの,どちらかというと「静的」な雰囲気が強かったのに対し,今度は,「夢使い」vs“魔”というバトル・シーンが,数多く描かれるようになります。とくにそれは『夢使い』になってより顕著になっています。その点で「夢使い」が,玩具を用いて,破天荒な「技」の数々を繰り出すという発想は,ユニークでおもしろいですね(もしかするとそれは『ギョ』の感想文で書いた「ページ数」の問題も絡むのかもしれません)。
 いずれにしろ,『ディスコミ』において分割され散在していたモチーフを,「夢使い」に集約させ,さらにそこにアクション性を加味している点に,この作者の新たな方向性が見られる作品群なのではないかと思います。

 それにしてもこの作者のエロティシズムは,ちょっとひねているというか,歪んでいるというか…他人事ながら,この作者,マンガという表現メディアを得ておいてよかったなぁ,なぞと思ってしまいます(笑)

02/04/25

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