五木寛之・森川久美『ソフィアの歌』角川書店 1994年

 1791年夏,時のロシア皇帝エカテリーナ2世は,サンクトペテルブルクの夏の宮殿に毎年恒例の避暑に訪れた。それと機を同じくして,ひとりの日本人がサンクトペテルブルクにやってきた。夏の宮殿の庭園長オシポ・ブーシェの妹ソフィアは,その無愛想な日本人に知らず知らずのうちに惹かれていく。男の名は大黒屋光太夫という・・・

 江戸時代の終わり頃,嵐のため船が遭難し,その後,カムチャッカ半島,シベリア,ロシアを10年に渡って彷徨し帰国した伊勢白子の船頭・大黒屋光太夫。その生涯は,作家さんのインスピレーションを刺激するようで,彼を取り上げた作品には,有名なところでは井上靖『おろしや国酔夢譚』椎名誠『シベリア彷徨』,そしてこの作品の原作『ソフィアの歌』など数多くあります。マンガでは,みなもと太郎の『風雲児たち』で,光太夫一行にかなりのスペースを割いています。わたし自身も,前近代において(意図的であれ,事故であれ)海外へと渡った日本人を扱った作品はけっこう好きで,この光太夫一行をめぐる物語も目にすると読むようにしています。
 一方,作画者の森川久美といえば,ルネサンス期のイタリアを舞台にした一連の作品や,『蘇州夜曲』『南京路に花吹雪』『Shanghai 1945』といった日中戦争時の中国を舞台にした作品など,その硬質なストーリィと独特なタッチの作風が好きでした。その作者が,大黒屋光太夫を描く,となれば,これは何をおいても読まずにいられますまい!(といっても,この作品の存在を知ったのは,古本屋で本書を見つけたときなのですが・・・^^;;)。

 さてこの作品の原作は,読んだことがあるとはいえ,ずいぶん前ですし,今手元にないので,以下の感想は,このマンガ化作品に限ったものとご了解ください。
 まずは大黒屋光太夫,サンクトペテルブルクを訪れたとき,彼はたしか40歳前後だったはずですが,30歳代前半にしか見えないのは,まぁ「お約束」ということですが(笑),この作品での彼は,たとえば彼を連れてきた博物学者ラクスマンの言葉を借りれば,「状況を識別したとたん冷静に対処法を考える性懲りの無さ」を持った人物として描かれています。それはリーダー,マネージャーとしての資質であり,「帰りたい」という強烈な意志に支えられたものでしょう。しかしその一方で,彼は,ナイーヴな側面も持っています。異国の大地で死んでいった同胞たち,同情と憐憫,そして利害によって振り回されてロシアを彷徨う自分,ロシアに残ることを決めた新蔵の痛罵・・・なによりも自分自身の無力さに苛立ち,怒りを覚えています。こういった二面性(といっていいのかどうか,少々ためらわれますが)を持ったキャラクタは,森川作品でしばしば見られるように思います。
 一方のソフィア。彼女は,明るくたくましいキャラクタです(「わたしは魔女」というところは笑ってしまいました)。しかしその胸の中には,手痛い失恋の記憶が秘められており,光太夫に惹かれながらも,彼を愛することにためらいを感じています。かつての恋人のように,彼もまた自分から去ってしまうという想いに苛まれます。そして,いったんは「ロシアにとどまる」と言った光太夫に帰国の望みが見えたとき,「捨てられるくらいなら,一生憎まれたほうがまだマシ・・・!!」という光太夫をなじる激しさをも持っています。
 そんな彼女と相通じるものを持っているのが,エカテリーナ2世です。若い男との浮き名を流す一方で,ロシア帝国皇帝として辣腕を振るう,押しも押されぬ大女帝です。そんな彼女がかつて愛し,自分から去っていったポチョムキン。皇帝として手に入らないものはない彼女が唯一手に入れることのできなかった男性・・・。彼女は,哀しむソフィアの姿に,かつての自分自身を見いだします。
 光太夫が去ったのち,ポチョムキンとの思い出を語るエカテリーナに,ソフィアは笑みを浮かべながらこう言います。
「夢を見るのはおよし遊ばせ,陛下。帝国の栄華と同じくらい,男の愛など空しいものでございますよ」
 このセリフは,日本に帰国して幽閉のうちに残りの半生を終えた光太夫のモノローグ,
「あれが夢なら,夢の中でこそ私は真に生きたのだ。ここでの人生こそ虚しい影だ――」
と響き合います。
 当時のロシアと日本の歴史状況の違いというのは当然あるとはいえ,同じ「夢」を見ながらも,男女で違う「夢の見方」をしているようにも思える印象的なラスト・シーンです。「夢」はときに人を強くもしますが,ときには人を縛るものなのかもしれません。あまりに強烈の夢を見てしまったものにとって,色褪せた生活はどういう風に目に映るのでしょう・・・

 う〜ん,やっぱり森川作品はいいですねぇ・・・

99/02/17

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