夢枕獏・岡野玲子『陰陽師』8巻 スコラ 1999年

「こうして高い所に登って眺め降ろすというのは,見えてなかった本当の山の姿や辿って来た道筋があきらかになって,なかなかドキドキするものだなあ」(本書より;博雅のセリフ)

 雨が降らず旱の都。晴明の兄弟子,陰陽寮の加茂保憲が神泉苑で雨乞いの祭“五龍祭”を執り行うことになった。その協力依頼を断った晴明は,博雅とともに若狭へと旅立つ。単なる雨ではない,世界を浄化させる“宇豆(うつ)の甘水”を降らせるために・・・しかしそれはまた晴明自身の過去を浄化するための旅でもあった・・・

 というわけで,本巻は「阿倍晴明 天の川に行きて祈ること」であります。さて今回のネタは,陰陽師にとっては,定番中の定番,「雨乞い」であります。もちろん,「晴明が祈りました,雨が降りました」では「お話」になりません。「本番」は,兄弟子である加茂保憲にまかせておいて,晴明は,博雅とともに,若狭から貴船,室生,丹生,そして吉野をめぐります。いずれも“水神”に関係したそれらの場所の配置は,ある形象をかたどったものになるのですが,それは読んでのお楽しみというところです(ある別のものの配置が,じつは伏線になっているあたりが楽しいです)。
 そして聖別された「瓜」を,それぞれの「水神」に奉ることで,晴明はみごとに都に雨を降らすことができるのですが,じつはその「雨を降らす」,それも単なる雨ではない「宇豆(うつ)の甘水」(「宇豆」とは「宇宙」のことでしょう)を降らすということにより,晴明は世界を浄化せんとします。
「雨は地球を浄化する。涙は子宮を浄化する。浄化された魂は来るべき新しい魂を受け入れ,新しい生命を育むのだ」

 このエピソードは,しかし,「晴明による雨乞い」だけを描いたものではありません。ときおりフラッシュ・バックのように挿入される若い頃の晴明の姿。長い髪を結うことなく肩に流し,いつもめったに表情を表に出さない「今」の晴明とは,どこか違う雰囲気を持った晴明の姿です。作者たちは,晴明と博雅の「水神巡り」を描きながら,それとともに晴明と加茂家,とくに保憲との確執を小出しに描き出していきます。
 その天賦の才ゆえに兄弟子である保憲に疎まれ,加茂家を去らねばならなかった晴明,しかし加茂家を去ることだけが,晴明の「解放」にはなりません。その身に深く染み込んだ兄弟子の情念―嫉妬,恨み,憎悪・・・―から自由にはなりえません。髪振り乱し,「水」の力でその情念を振り払おうとする若き晴明。
 彼はラストで言います。
「雨乞いのために動いたつもりだったが・・・とんだおまけがついていたな」
と。そして,烏帽子の中できつく結われた髪をほどきます。それは,さながら苦しんでいた若き日の自分の姿に戻るかのようです。若き日の自分を受け入れる姿のようにも見えます。「宇豆の甘水」で世界を浄化すること,それは同時に,その世界に属する晴明そのものを浄化することなのでしょう。「完全無欠」に見える晴明ですが,その心の内部には,まだいろいろなものを抱え込んでいるようです。だからこそ,魅力あるキャラクタとも言えます。

 ところで,先日,日本神話をネタにしたホラー小説『水霊 ミズチ』という作品を読みましたが,こちらでも「水」が重要なアイテムとして使われています。やはり日本という風土にとって「水」は,欠くことのできない要素であり,それゆえに神話的にも呪術的にもさまざまな意味が付与されているのかもしれません。「水に流す」なんていう俗諺もありますしね・・・

99/02/23

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