浦沢直樹『20世紀少年』8巻 小学館 2002年

 「こんなものは,俺達の空想した未来じゃない」(本書より)

 東京を蹂躙する“巨大ロボット”に突入したケンヂは,そこで,ついに“ともだち”の素顔を見るが…2014年,“ともだちランド研修所”に入所させられたコイズミは,その恐ろしい実態を垣間見てしまい,脱走を図る。その途中,“ケンヂ一派”の生き残りのひとりヨシツネと遭遇。彼の依頼を受けて,“ともだち”の秘密を探るべく“ボーナスステージ”へと進むが…

 赤ん坊の笑顔はかわいいです。わたしのような,いい加減ひねくれた人間(笑)でも,その笑顔の前には,つい顔がゆるんでしまいます(突然,変な話をはじめてすみません。ちょっとおつきあいください(_○_))。
 ところで社会生物学から言わせると,赤ん坊の笑顔というのは,ひ弱で,自分ひとりでは生きていくことのできない赤ん坊が,他者(とくに親)の関心と保護欲を引き出すための「戦略」なのだそうです(なんとも身も蓋もない見方ですが,知人の母親によれば「一面の真実をついている」そうです。「でなきゃ,こんなめんどくさいもの,育てられないわよ!」とのこと(笑))
 つまり笑顔には,相手の警戒心を解き,安心させる「効用」があります。ですから,赤ん坊だけでなく,大人の通常のコミュニケーションにおいて笑顔は重要な「アイテム」と言えましょう。しかし世間ずれしてくると,相手の笑顔の背後に「なにかあるんじゃないか?」などと勘ぐるのが条件反射になったりします(やれやれ(..ゞ)。実際に,顔は笑顔でも「目が笑っていない人」というのはけっこういます(自分も,そういうときが,きっとあるのかもしれませんが^^;;)。

 前巻において,テロリズムの最中,その映像を見ながら笑っている“ともだち”シンパの姿を描くことで,現代の「狂気」と「悪」の有り様を鮮やかまでに描き出したこの作者,今回もまた,ひとりの女性の「笑顔」でもって,その狂気をふたたび浮き彫りにしています。
 “神さま”から「血の大みそか事件」の「真相」を聞いてしまった女子高生コイズミは,“ともだちランド”という「研修所」に入れられます。そこは,一見アミューズメント・パークのような体裁を装った,“ケンヂ一派”に対する憎悪と軽蔑を持たせ,“ともだち”への親愛・忠誠を増幅させる「洗脳」システムです。そこに登場するのがドリームナビゲーターの高須です。彼女はつねに微笑みをたやしません。言葉遣いも明るく丁寧。まさに絵に描いたような(逆に言えばステレオ・タイプの)体育会系の「頼れるお姉さん」風です。
 そんな彼女の笑顔が,単に“ともだちランド”に入った少年少女たちを手なずけるためならば,それは,上に書いたような,世間一般で見られる「笑顔」と大差ありません。いわば「手段」としての笑顔です。しかし,“ランド”の少女のひとりが脱走,少女に薬物を打って捕獲した高須の顔から笑顔が消えることはありません。そして仲間たちに明るく「“ともだちワールド”行き,ひとり入りました−!」と声をかけ,仲間たちも「サンキュー」と陽気に答えます。仲間以外,誰も見ていない状況においても,高須は「笑顔」を保ちながら,ひとりの少女を拉致します(その遣り取りは,どこかハンバーガー・ショップやコンビニエンス・ストアでの「マニュアル的対応」をも連想させます)。
 しばしば「悪役」の描き方として,表では笑みを浮かべながら,裏では残忍な「顔」を見せる,という手法がありますが,この作者は逆に,つねに「笑顔」をたやさない高須を描くことで,そういった「社会的なお約束」としての「笑顔」ではくくりきれない,もっと不気味でおぞましい「悪」と「狂気」を表わそうとしているように思えます。

 さて,“ケンヂ一派”の生き残りのひとりヨシツネと遭遇したコイズミは,彼の依頼を受けて,“ともだちランド”の“ボーナスステージ”へと進みます。そこで彼女を待ち受けていたのは,ヴァーチャルな世界の「1971年」。“そこ”には,少年であるケンヂやオッチョたちがいます。そして“ともだち”もいるはずです。コイズミは“ともだち”の素顔を見ることになるのでしょうか? う〜む,ここらへんの計算し尽くされた「引き」は,まさにこの作者の独壇場ですね。早く続きが読みたい!

02/05/04

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