浦沢直樹『20世紀少年』10・11巻 小学館 2002年

 カンナと小泉響子の前に現れた“サダキヨ”。彼もまた“ともだち”の犠牲者のひとりだった。だがサダキヨは,彼らの一通のメモを残す。“ともだち”の正体と,彼の意図・計画の全貌を記したメモを…しかしそのメモはカンナに辛い現実を直面させた。2000年大晦日,全世界を席巻した細菌兵器の開発者は,母キリコであったのだ…

 PCクラッシュやら,年末の長期出張やらに取り紛れていて,10巻の感想文を書き損ねていたら,11巻が出てしまいました(..ゞ

 さてはまず10巻。カンナを中心とした新宿をめぐるエピソードが一段落したのち,つにサダキヨの登場です。かつて,“ともだち”の正体ではないかと推定され,さらに2000年大晦日,フクベエ「サダキヨじゃない」というセリフを残して,ビルから墜落していきました。この巻での登場時も,なにやら怪しげな笑みを浮かべながら小泉響子に接近してくるところとか,コイズミを連れ込んだ家の奇怪さなど,「怪しさ爆発」といった感じです。このあたり,アルフレッド・ヒッチコック監督の映画『サイコ』をベースにしているのでしょうね(いない母親を「お母さん」と呼ぶところなど)。
 このサダキヨが“ともだち”に取り込まれていく原因のひとつに,彼が自分を「いない人間」と考えることがあるように思います。この「いない人間」というと,どうしてもこの作者の代表作『MONSTER』ヨハンを連想させずにはおられません。ヨハンは「いない人間」になることによって,巨大な「悪」へと変貌していったのと対照的に,サダキヨは「いない人間」になることによって,“ともだち”に支配され,翻弄され,ついには友人モンちゃんまで殺すまでに至ってしまいます。そのベクトルこそ逆なものの,「いない人間」というアイデンティティ不安こそ,現代という社会が抱える「闇」のひとつなのかもしれません。だからこそケンヂ「「ズルはダメだよ」といったサダキヨが“ともだち”のはずはない」という一言,サダキヨを「いない人間」とみなさない一言が,彼にとって救いでもあり,解放であったのかもしれません。あまりにも遅い「解放」であったのかもしれませんが…

 10巻末から11巻にかけて,遠藤カンナを中心に,物語は大きく動いていきます。カンナの父親が“ともだち”であることは,すでに匂わされていましたが,ここにいたってついに明らかにされます。さらに母親のキリコ(ケンヂの姉)が初登場,彼女が2000年の大晦日,全世界で15万人の死者を出した細菌兵器を産み出したこともまた明らかにされます。
 そして彼女は1枚のメモを残します…「わたしはゴジラ。わたしは15万人を踏みつぶした」
 このシーンで,わたしはふとよど号ハイジャック犯が北朝鮮へと飛び立つときのセリフ−「わたしたちは「明日のジョー」になる」を思い出しました。フィクションのキャラクタに仮託して,みずからの心情を語るという行為は,おそらく人間がフィクションなるものを創造して以来,ずっとあるものだと思いますが,そこに「マンガ」や「怪獣映画」を持ってくるところは,すぐれて現代的とも言えましょう。
 しかし「ゴジラ」という,まごうことなく「空想上の怪物」に我が身をなぞらえることは,通常ではあり得ません。しかしそうせざるを得ないキリコの気持ち…それは,「オウムの悪夢」を経験してしまっているわたしたちにとって,けっして「空想上」ではないリアリティを感じさせます。
 「ゴジラ」を産み出したのが,人類による核兵器開発であるのと同様に,この作品におけるキリコ=ゴジラを産み出したものもまた,わたしたちの社会そのものなのかもしれません。

 万丈目高須とが口にした「1970年の嘘」とはなんなのか? キリコが映画の中で叫ぶ「西暦2015年で終わる」という「予言」の意味は? 鍵を握る「ヤマネ君」は何ものなのか? そしてヨシツネを中心にふたたび結集し始める「20世紀少年」たち…この2巻で,新たにさまざまな「謎」が提出され,物語は新展開を迎えますが,同時にいよいよ「煮詰まってきた」という感じがしてきますね

03/01/10

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