浦沢直樹『MONSTER』Chapter18 小学館 2002年

 「誰にとっても平等なのは…死だけだ」(本書 ヨハンのセリフ)

 フランツ・ボナパルタとヨハンを追って,テンマが,グリマーが,ルンゲ警部が,ニナが,殺戮の場と化したドイツの田舎村ルーエンハイムに集う。そして,数知れぬ死骸の向こう側から,ついにテンマの前に姿を現したヨハン。ヨハンに銃口を向けるテンマ。彼は引き金が引けるのか?

 人間の心の奥底に潜む「闇」と,現代という時代が抱え込む「闇」とを輻輳させながらの,比類なきサスペンス作品がついに完結しました。
 卓抜したストーリィ・テリングで展開されてきた物語は,それにふさわしいクライマクスを迎えます。「死の街」と化したルーエンハイムで繰り広げられる凄惨でもの悲しい戦い。511キンダーハイムで,すべての記憶と名前,人間的感情を奪われたグリマーは,超人シュタイナーとしてではなく自分自身の怒りにより戦い,傷つき,死んでいきます。「これが…本当の悲しみか……これが…幸せか……」と呟きながら死んでいく彼の姿は,「感情なき兵士」を作り上げようとする現代国家がもたらした悲劇の象徴なのでしょう。
 一方,冷酷で人間的な暖かみを見せたことのないルンゲ警部もまた,テンマを,ヨハンを追う調査行の中で,少しずつ変わっていったように思えます。銃を向ける街の住民に対して,「あんたは銃を撃つような人間じゃない」と声をかけたり,ついに巡り会ったテンマに「すまない」とわびを口にしたり,と人間性を少しずつ取り戻していったのではないでしょうか。だからこそ,ヨハンの忠実な手下ルベルトとの壮絶な戦いは,もちろん彼の警官としての任務もあるかもしれませんが,それ以上に,そんな「新しい彼」が感じるヨハンに対する深い憤りによるのではないかと思います。

 そしてついにテンマとヨハンが相まみえます。このふたりの対峙するシーンから浮かび上がってくるのは,「善と悪」の対立というよりも,より根元的な「生と死」の対立ではないでしょうか? 本編の最初の頃,医師であるテンマは「生命の平等」を信念にしていることを口にします。そのことを婚約者エヴァに嘲笑われ,病院内での立場を悪くし,そしてヨハンという「モンスタ」を世に解き放ってしまいます。「生命の平等」がもたらした皮肉な事態。それを解消するためには,医師であるテンマ,人の命を救うことを使命とするテンマが,殺人で手を汚さねばならないというジレンマ。それがこの物語の基調としてつねに流れ続けます。
 ヨハンはその対極にいます。フランツ・ボナパルタによって,徹底的なまでに人間性を剥奪された「なまえのないかいぶつ」ヨハンにとって,平等なの「生」ではなく「死」です。男も女も,金持ちも貧乏人も,エリートも一般庶民も,死を前にして違いはありません。それが,人間を思いのままに操り,その生と死をコントロールしてきた彼の終着点なのでしょう。
 それゆえにヨハンは,テンマによって殺されることを望んだのです。「生の平等」を掲げるテンマに,自分自身を助けたテンマに殺人を犯させることで,みずからの「死の平等」の勝利を確信すること。それがヨハンの希望だったのでしょう。銃口を向けるテンマに,二度に渡って自分の額を指さす行為の意味はそこにあります。そしてニナが何度もテンマに「撃っちゃいけない」と叫んだのもまた,一見,ヨハンの殺害によるテンマの「勝利」が,じつはヨハンの勝利−「生」に対する「死」の優越−をもたらすことを知っていたからなのでしょう。
 そして作者は,入念なプロットとストーリィ展開で,テンマによる殺人を回避させ,さらに瀕死に陥ったヨハンを,ふたたびテンマの手術によって助けることによって,テンマの最終的な勝利−「生」の勝利へと導きます。たしかにテンマの手術は,見た目には皮肉な状況−殺そうとした人物を助ける−かもしれません。しかしそれは皮肉でもなんでもなく,この物語の冒頭に示されたテンマの信念に,彼が回帰したことを示しています。10年以上におよぶテンマの「旅」は,彼がスタート地点−信念を持った医師として地点に戻ることで,ようやく幕を閉じることになったのだと思います。

 けれども物語のラスト・シーンは,寝ているはずのヨハンの姿が消えた,空っぽのベッドです。サスペンス作品のラストとしては常套的なものであるとはいえ,本作品で描かれた「生と死の対立・闘争」が,けっして終わりのないことを暗示しているのではないでしょうか? そしてそれは,テンマが,世界各地で起こる部族紛争・民族紛争の最前線−絶えることのない「死」−で従事する「国境なき医師団」の一員になったこととも響き合うものといえましょう。「テンマ」と「ヨハン」の戦いは,形を変えながらも続いていくのかもしれません。

 さてもう一度ゆっくりと1巻から読み返しましょうか……

02/03/19

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