PREVIOUS


 ぼくは道路に沿って歩いてゆく。国道だというのに車は一台も通らない。ぼくは歩道から国道の真ん中に出て歩き出す。辺りはしんと静まりかえり、風の音だけが聞こえる。風だ。風が強い。空は青く澄み切っている。雲一つなく、風だけが吹いている。空には薄く白い物体がひとつ浮かんでいる。円盤が半分欠けた形...。月だ。この風は、月から吹いてきているのだな。ぼくは直感した。コートを羽織ったぼくは、風に飛ばされないように少し屈みながら白い月の方向へ歩いてゆく。しばらく行くと、国道の右側に細い路地が現れる。ぼくは導かれるようにその路地に入る。路地の両側には家が建ち並び、さらに歩いてゆくと左手に大きな庭が見えてくる。子供達が大勢遊んでいる。庭には大きな砂場がある。ここは幼稚園だろうか?砂場で遊ぶ子供達に老人が混じっているのに気づく。子供と同じ制服を着て一緒に砂遊びをしている。老人は1人ではない。2人、3人、4人、5人...突然、建物の中から女性の声が鳴り響く。子供と老人は、皆、声の方向に駆けてゆく。そして誰もいなくなる。ぼくは庭を横切り建物に近づく。建物の表札を見ると「岬 玲子」と書いてある。だが、人の気配がし ない。ぼくは寂しさを覚えた。路地に戻ると向こうに小さな人影が見える。たぶん今の声の女性だ。ぼくは女性の方へ駆けてゆく。白いビジネススーツの女性。顔はよく見えないが、美人であることをぼくは知っていた。ぼくは呼びかける。「岬さん!岬さん!」彼女は蜃気楼の中を向こう側へゆっくりと歩いてゆく。「岬さん!あなたに渡すものがあるんです!」ぼくは一生懸命走ろうとしているのに、足がなかなか進まない。「岬さん!岬さん!」彼女は揺らめきながら蜃気楼の中に消えてゆく...。

 目を覚ますと、時計は朝の7:50。夢から覚めたぼくは、倦怠感に包まれていた。制服に着替え、キッチンに向かう。かあさんは流し台の前。妹は、テーブルで朝食。妹がみそ汁をすすりながら言った。
 「にいちゃん、なに朝からうなされてんの?声が色っぽかったけど、Hな夢みてたんじゃないの?」
 最近、色気づいてきている。ぼくは無視して洗面所で歯を磨く。それから、飯とみそ汁を急いで掻込んだ後、トイレへ走る。いつもながら、飯の途中で便意を催すのは欠点だと反省する。トイレは父が占領している。いつもの事だ。妹はいつも早起きをして便を済ます。いつもの事ながら、ぼくは便を我慢し、キッチンに戻り、弁当を受け取ってから、自分の部屋に戻り、カバンに弁当箱を詰める。玄関へ行き、靴に足先だけ突っ込んで、自転車の荷台にカバンを縛っていると、父がトイレから気だるさと至福の入り交じった表情を浮かべながら出てくる。ぼくは靴を飛ばしてすぐにトイレに駆け込む。トイレの外では、妹がいってきまーすと中学校へ出かけてゆく声が聞こえる。妹の朝はいつも余裕だ。ぼくは便を吐き出し終えると、再び玄関へ行き、自転車から落ちたカバンを拾い、荷台に縛りつけるのだった。今日もまた、弁当の中身が一方向へ寄り、大きなスペースが出来ていることだろう。しかし、おかずの汁なんかがご飯に混ざり、結構、美味しかったりする。弁当を食べている様子を想像しながら、学校へ向けて自転車を走らせた。後ろでかあさんが何か叫んでいる。たぶんまた忘れ物をしてし まったのだろう。しかし、家の前は下り坂ですでにスピードが出てきている。面倒だから無視した。
 今日は、
      菜原市つつじヶ丘二丁目5−2
を探すのだ。
3時間目が数学で、4時間目が地理学の授業。両方とも先生がチョロいから、この時間を使って探しに行こう。
学校への道は下りがずっと続いている。自転車のブレーキが最近効かなくなってきたので結構怖い。ブレーキのきーきーいう音が、朝の街に響いていた。

 2時間目が終わって、早速、学校を抜け出すことにした。学校の敷地内の何カ所かに自転車置き場があるのだが、ぼくら2年生の置き場は、職員室の窓の外にある。今朝、何も考えず、ここに自転車を留めてしまったのだが、元々、途中で抜け出す計画だったのだから、1年生か3年生の置き場に留めておけばよかった。こんなところがぼくはダメだ。
 ぼくは冷静に自分の自転車まで歩いていった。職員室の中からひとりの先生がこっちを見ている。ぼくは自転車の列から冷静に自分の自転車を引き出す。そして自転車にまたがり、平静を装って校門の外へと去った。後ろで何か起こっている気配はなかった。
空は相変わらずの曇り空で、道のあちこちには水たまりが出来ている。今年の梅雨は、それほど雨が多いほうではないが、早く明けてくれるに越したことはない。夏が待ち遠しい。青の背景に高くそびえる入道雲。海水パンツにTシャツを着て、横山や大西とバスに乗って海に行こう!


   菜原市つつじヶ丘二丁目5−2
   菜原市つつじヶ丘二丁目5−2
   菜原市つつじヶ丘二丁目5−2
   菜原市つつじヶ丘二丁目5−2
   菜原市つつじヶ丘二丁目5−2

 つつじヶ丘。国道から横道に入って行くと、住宅街が広がっている。そこからまだずっと奥の方へ入ってゆくと、住宅はまばらになってゆき、小高い丘が見えてくる。道沿いのブロック塀の表示を見ると、「つつじヶ丘一丁目」とある。この辺りだ。
 小高い丘の上に,白い建物が見える。
 空を覆う雲の切れ間から,少しずつ水色の空が広がってゆく。田圃が多くなってきた辺りの景色は,光に照らされて輝いてゆく。丘の上がかすかに瞬いている。白い建物の窓が反射しているのだ。惹かれるように,自転車は丘の方へ向かって漕がれてゆく。
 道は,ゆるやかに上り坂へと変わってゆく。そろそろ「つつじヶ丘二丁目」に入っただろうか?
 坂はしだいに傾度を増してきた。高いブロックの上に造られた家家の間を,道は蛇行しながら登っていく。息を切らしたぼくは,自転車を降りた。
 家なんてすぐに探しだせると思っていた。こんな事なら地図で住所を確かめてから来れば良かった。
 遠くからはよく見えたてっぺんの白い建物も,いざ丘を登り始めると,崖や針葉樹林に隠れて全く見えない。家の門の表札を一件一件確かめながら自転車を押してゆく。「つつじヶ丘二丁目12−」の辺りだ。湿度が高い...下着が体に張り付いている...。 
とうとう,丘のてっぺんまで来た。そこには広い駐車場と二階建ての白い建物があった。 ここは,2年前までは美術館だったのだが,経営していた会社が倒産して,閉館になってしまったのだ。開業していた頃は,主に20世紀初頭の外国の絵が展示されていた。社長が長年かけて集めたコレクションだったらしい。ぼくが中学校の頃に,ニューヨークの美術館から貸し出された絵が数点展示されたことがあった。日曜日に友達とふたりで見に行った。その時展示されていた「クリスティーナの世界」という絵を今でも覚えている。荒涼とした大地に,ひとり少女が伏しいる。何かに打ちひしがれた様なその後ろ姿は,ぼくに強烈な印象を与えた。絵の中の少女なのにも関わらず,少女のその後の人生について溜め息混じりに考える事が今でもある。そんな訳で,ここは,ぼくにとって特別な気持ちになる場所なのだ。
自動車が一台もいない広大な駐車場を横切り,美術館跡へと近づく。ここはまさに荒涼としている。廃墟だ。
 旧ソ連のタルコフスキーという映画監督が「廃墟」を好んで撮る。この人はもう死んでしまっているが,世界的に人気のある巨匠ということだ。最近ビデオで3本まとめて見た。「惑星ソラリス」は,ストーリーが切なく,ぼくのお気に入りとなった。「ストーカー」と「鏡」は,よく解らず退屈なだけだった。しかし,非現実的なイメージが散りばめられていて,そこが魅力的なのは確かだ。しかもゴミや汚水を延々と撮っているのだ。こんな変なものを撮ろうという発想にも驚いたが,ゴミや汚水に見とれてしまうから不思議だった。
 余計な事を考えているうちに,建物の前まで来ていた。美術館跡というイメージのためか,ぼくの頭の中は,さっきからアート・モードになっている。建物がユトリロの白い教会の絵「ドューユ村の教会」とオーバーラップしている。
窓から中を覗くと,テーブルや倒れた椅子に埃が積もっている。
 自転車を押しながら玄関の前まで歩いて行くと,大きな表札があった。
     宮村私設近代美術館
その表札の斜め下の壁に,青い小さなプレートが貼ってある。
     菜原市つつじヶ丘二丁目5−2
  !
 自転車を停めてカバンの中から「日記帳」を取り出した。
 最後のページを開いて住所を確認する。
   同じだ。

「日記帳」に書かれた住所が間違いなのだろうか?しかし,日記に書く住所を間違える人なんて居るだろうか?
   頭が混乱している...。
   頭が混乱している...。
...................。
...................。
 日射しが熱いことに気がつく。空はだいぶん青空が開けてきている。ムシ暑い。カエルの鳴き声が聞こえる...。 
ぼくは美術館の裏に廻り,大きな椎の木の下にある置石の上に座った。ここは丘のてっぺん。眼下には,田圃の波,その先には市街が広がっている。坂を登りきった後の体の「火照り」と「倦怠」を崖下からの心地よい風が吹き抜ける。このまま空へ運んでくれたらいいのに...。
 しかし,風はただ心地よさを運んでくれているだけではない事を,ぼくは心の底で感じていた。風は心のスキマを吹きぬけて行くのだ。風は,心に残るあたたかい何物かを少しづつ引き剥がし,空の彼方に飛ばして行く。そうやって,スキマを少しづつ大きくしてゆくのだ。
 あたたかい何物か...それは,岬玲子だ。
 彼女との接点は失われてしまった。昨夜,返送された郵便物を手にした時に感じたこと,
     もう彼女には会えないのではないか?
その想いが決定的になったように感じる。
 風に奪われてゆく心...これが「喪失感」というものなのか?...
 しかし,ぼくの心の箱には,まだ,「焦燥」というものが残されているようだ。
 ぼくは,カバンの中から再び「日記帳」を取り出した。
     彼女に「日記帳」を返すために読むのだ...。
     手掛かりを捜す。これは必要な手順なのだ...。
ぼくは,「日記帳」の1ページ目を開いた。

つづく

NEXT

to Library