池田湖付近の伝説

池田湖は指宿市、開聞町、山川町に囲まれた周囲15キロメートル程の小さい湖です。
とは、いっても、九州では一番大きい湖で、深さも錦江湾と同じ230mはあるという、
場所によっては、イッシーの出そうな、神秘的な佇まいも、みせています。
湖の東側は切り立った岩山が湖にまで落ち込んで、人を寄せつけない険しさがあります。
湖の西側は、観光地化されて、土産物店・遊覧船発着所や大ウナギの水槽があります。
以前一時期、イッシーらしきものを見たと、複数の目撃談があり有名になりました。これも
年月が経ってしまうと、伝説と化して残っていくのでしょうか・・

名馬池月伝説
開聞岳裾野から、薩摩半島分水嶺付近は現在も牧場がたくさんあり、それにちなんだ
地名、馬頭観音なども残されています。江戸時代の牧やオロ「馬を誘いこむ土手」等も
現存します。
藩の軍馬の飼育も盛んでした。池田湖の馬頭観音はこの頴娃の牧にちなむもので
少し前までは、お店など出るお祭りとしてもにぎやかだったそうです。
生月「池月」の話・源頼朝から依頼され名馬探しでこの付近で生月という子馬が
目にとまり、頼朝から家来に下げられ、これが宇治川合戦の先陣争いの池月です。
残された母馬は、子供を捜して、その嘆きは狂わんばかりで、野を掛け回ったり、湖で
泳ぎまわったりして、ついに崖から身を投げたそうです。これを哀れんだ村人が、石塔
を立てて祭ったと言うことです。池田湖畔のそれが、小浜観音と言われ、馬頭観音とも
呼ばれています。頴娃町の町営牧場の「現在アグリランド」にも馬頭観音があり、
池月はここで産まれた(喜入・頴娃の千貫平)との伝えもあります。このふたつの
馬頭観音は直線で10キロも離れていません。ここから池田湖まで水飲みにちょこ
ちょこ遊びに出かけたと言う訳です。
参考1
伊作古記に寿永中源大将軍の佐々木四郎高綱に賜りし池月といふ名馬は
薩摩の國頴娃郡池田の牧方出たりと記せり。池月と名づけたるは池田の名
より取りしなるべし。細馬集に所載する所は・・・大日本史に池月と書きたるは
実を得たり。彦火火出見尊海宮に赴せ給いし時、海中の駿馬・・・・・・・・・・
此遺種なりし耶
参考2
伊佐郡多郷古記に、寿永中源頼朝が佐々木四郎高綱に与えたる池月・・・
池田の一字をとり、月とは半月なりしの○文様在りし故に・・

小浜観音は、この池月の母馬を祭神にまつっている。鳥居も三つもあり
参道も長く、そこらの神社より大きく立派であるが、最近は祭も廃れた様で
荒れ出しているのは、残念である。


飢死御前「ひじんがごぜん」

池田湖のほとり取水建物の脇右赤柵が入口 中は意外に広い 真中石の上の丸いのが地蔵

湖の指宿市への取水口のそばに、10u位の岩穴があります。ここに応永27年「1420年」
清見城主池田信濃守が攻められ戦死し、家老の遺児が姫と奥方を守ってここに潜んだ。
城を抜け出した三人は、安否を気づかい、やがて悲しい知らせに、城主の霊をなぐさめに
地蔵尊を岩に刻んだ。そして、断食し亡くなったという。その地蔵尊は刻み地蔵と言われ、
洞窟にあり、今でもここらでは岩穴を「飢死が御前」と呼んでいます。
攻めたのが肝付勢とも、肝付の家来であったのを島津勢が攻めたとも記載あり。
応永19年「21年」に島津がちょっと北の給黎城を攻めて領土拡大中なのと、肝付が
喜入に入ってきたのがこのあと、およそ200年後なので、島津勢と戦いが正しいと思われる。
現地の看板には、知覧・佐多伯耆守親久が攻めたとなってました。「佐多は島津の支家」


池王明神
池田湖の池崎に伝わる話。湖の畔の草むらに、頭が人間で首から下が竜の格好をしたのが
寝ていたのを農夫が見つけ、短刀で首を切りつけた。竜は血を流し湖に消えた。その晩農夫は
突然死し、看病の妻も言動おかしくなった。集まった親族に「我は竜王で、寝ている時突然
切りつけられ亡くなった、一族を祟ってやる」とのことで、親族は竜王を「池王(尾)大明神と
して祭った。             
  この項池王明神・指宿市広報平成13年版より

同じような場所があり、気づかないほど 左の林の中、隅にひっそりと奉られている

尾下池田湖平家落人伝説へ戻る       鹿児島の平家落人伝説地トップに     第2集「鹿児島南薩摩」  第3集「日本鹿児島の四季」

以下