安徳天皇、資盛などの足跡 A

硫黄島に落ち着いた安徳天皇・資盛らは、島に黒木御所を造る。
2年目文治三年(1187年)帝は狭野内侍を資盛の妻にさせる。
1190年4月23日長男伊王丸誕生・
次男・阿丸、長女をもうける。
伊王丸は三位吉資に、長女は櫛匣局「くしげのつぼね」 建久9年
櫛匣局は安徳帝の后となる

硫黄島平家城(平家討伐の監視所)跡から

平家追討
第1回は、天野達景らが、文治4年5月17日に硫黄島へ、身代わりをおいた帝は高山四十九神社に逃亡説もある。島では13人が立ち向かい切られ、他は降伏。黒木御所の裏通り。岩切家で行っている供養がその時のものという。ほかに、三島の黒島にも討伐が・これは、別項で取り上げたい。椎葉の鶴富姫と那須の大八郎の物語と同じようなロマンス話もある。

第2回 下司職となった島津忠久が1回目の5年後、建久4年
     この時は、硫黄島には来ず。
第3回 同じく島津忠久、11年後の元久元年(1204年)に、
     早くから察知。一時大島・琉球にのがれる。

壇ノ浦合戦後、敗れた戦闘組も、長崎沖・天草・出水・甑島・阿久根・樋脇・枕崎と源氏に追われ、傷つき血を流し落ち武者として転々と逃げてくる。枕崎から沖合いの黒島をめざしたり、そのままその先の十島「トカラ」や、さらに南の島に落ちていったのも多い。

1202年 硫黄島の平氏 分散 諸島へ
硫黄島でも、壇ノ浦後残党が多くなり、資盛は一門を各島に分散させる。
長濱一族を竹島に
清房・忠綱は屋久島、宗親・通正を黒島、資盛・時房・経俊・景光は大島琉球
 
硫黄島残留組
資盛の子伊王丸13歳で家督、三位中将吉資。後見人に阿波司吉房
教育係に経正、守役に業盛、
資盛の形見に貞盛・清盛・重盛より伝わる天光の刀を。これは、子孫長濱豊彦氏が秘蔵しているとか・
硫黄島は天皇とわずかの側近しかいなくなる。
天皇と櫛匣局に皇子が誕生、隆盛親王  
恐れ多いと断わられるけれど、吉資に養子入りし臣籍降下する、1223年。そのあと代々続き、この家系が長濱家である。現在までの系図が続いている。
安徳帝崩御1243年
長濱家では、その後の都の様子や全国の動向を探るスパイになったものもいる。福島県双葉郡浪江町に長濱家があり、群馬県太田市にもそちらの子孫と思われる長濱氏がおり、どちらも祖先を平重盛の二男資盛の子吉資の子で、安徳天皇の血筋であると称しているとのこと。

安徳帝・平家の書かれているもの
安徳帝末裔を称している長濱家文書類だけでなく、「鹿児島外史」巻之1 島津忠久薩摩下向の條に「養和帝在我大隅国肝属郡内之浦・・」島津忠久の下向は壇ノ浦後12年目建久7年なので、養和帝は安徳帝しか考えられないと。硫黄島の文字もあり、安徳帝が行幸したのは、間違いがないと推測。島津忠久は表面上、源頼朝の子と称すも高倉天皇の第3子、つまり安徳帝の弟の宮とまで推論しているものもある(秘伝島津譜)。それゆえ、島津も黙認していたから、硫黄島・大隅を動けたと。

また、大隅四十九神社旧記にも、人皇81代安徳天皇元暦二年三月十五日源平の乱壇ノ浦カラ御遁 内之浦御着船、勅使を肝付殿・・・・天皇ヲ守護奉ル肝付家は5代河内守兼石 6代周防守兼藤父子、主上ハ当社ニ三月程御忍ビ・・種子島・・

また、その「肝付氏古系図兼石譜中」に恐・・・帝・・・・・の文字が虫食いの間に残され、後の人がそこを何度か指したのだろうか大事なことがかかれていたと推測される。その頃の帝となれば、やはり、安徳帝しかないはず。

また、「薩摩旧記雑録」にも、元暦二年乙巴三月平家西海に滅ブ 小松中将資盛・・・・・多根屋久ノ南海ニ漂着ス」の記載あり。
これらの書物からして、硫黄島潜幸説は信憑性が高いと思われる。
長濱家古文書だけでなく、硫黄島権現宮の秘宝、墓碑・口伝・民俗風習とそれら三島、トカラ「十島」への繋がりなどからしても、安徳帝・平家の南島潜幸説を裏づけられる。

私は、歴史などの専門家でなく、研究家でもない。感想など独断と偏見で眺めているところもあると思うので、推論に責任は持てません。また、勘違い、書き写し間違いなどもあるかと思いますが、お気づきの点は、にんまり笑ってそっとメールでご教示下さい。

出典 三島村村史 三島村秘誌 内之浦郷土史 垂水市史 落日後の平家 南朝忠臣肝付兼重 鹿児島外史 
史料 肝付家系図 硫黄島大権現宮御本縁 三所大権現宮鎮座本記 若宮御降誕由緒有容本伝 鹿児島神社帳高山神社 四十九神社旧記

その後の硫黄島 三種の神器など続く