安徳天皇 鹿児島硫黄島潜幸説
平家物語などでは、二位の尼に抱かれて壇ノ浦海中に身を投じたとされています。しかし、「それは替え玉で、実際は…」という生存潜幸説は各地に残っており、それは、全国で18ヶ所、その後の崩御の場所8ヶ所とか、安徳天皇が潜在された場所30余りあると書かれたものもあるようです。
鹿児島硫黄島にもその伝説があり、いろんな史料など残されています。


安徳天皇、資盛などの足跡
屋島の戦いの後、讃岐から祖谷地方に
同じく、祖谷を抜けて四国山脈を通り土佐越知に・
壇ノ浦から、八女、九州山地になど、いろいろ伝説が残されています。
安徳天皇が入水せずに、替え玉であったというのは、本家でも認めているようなうわさもあり・・
ほかにも、足跡としては18ヶ所もあるというのは、うわさだけでなく、それこそ影武者がいくつかあり、われこそ本物と言いつつ、それを演じているうち本物になりきって真実味を帯びてしまったのもあるのかもしれません。
薩摩硫黄島の伝説を次に・・

安徳帝などの墓墳 硫黄島
やや中央、丸いのが安徳天皇の墓。まわりには御付の者を含めて、30個ほどの墓がある。鎌倉時代の墓だそうで、この場所を少し離れて后の墓がある。帝のそばでは畏れ多いと遺言したため

ほかに近くにも応永年間の平家墓とされるものが13墓ほど残されている。

 壇ノ浦前後の戦闘組と非戦闘員の移動

この硫黄島説にしても、また・・いまさら・・と言う時代の流れと、本当の歴史とされた場所が既にあり、宮内庁でもあとにひけぬものがあるのか、参考地としている場所も複数あり、この硫黄島も参考地としても認められています。
仮に本当であっても、突然に今更・個人の所有というか、天皇の血が辺地の個人に・書かれたものも、個人財産・宮内庁の権力・面子、もうちゃんとした神宮もあるのに、専用職員も必要になるし、維持費用も・ よほどの事実が出ないことには、どこも認めるわけにいかない立場が・・・・・

書かれた足跡
元暦2(1185年)年2月19日、屋島で源義経に敗れた平家は、安徳帝と三種の神器を真中に、船を長門の壇ノ浦に進めます。
赤間への御通船の折、伊予灘の地名を尋ね、島が幾つも入り組み八島と知ります。
元暦2年3月7日 1階級づつ位を上げて、戦闘隊と非戦闘員に分け、戦闘隊は、総君「つなぎみ」を中納言時房の7歳の娘とします。
系図からこれは口伝秘実女と書かれています。つなぎみ=替え玉の天皇
また、資盛と能宗が姿形顔も良く似ていたと言うことで、資盛に化けた能宗は戦闘隊に、資盛は非戦闘員として安徳帝を擁護。
3月15日夜 非戦闘員達は帝を真中に70余艘・1300人で釣り船に紛れ出立。
16日伊予の屋島「八島」そして、17日細島・風待ち・斥候を合戦の様子探りに出し、29日出立。
逆風の中4月5日に志布志着。8日志布志出立・種子島の浦田に到着。
ここでこの地の領主大江に勅使を出す。大江は、島には3人の同等の領主がいて、他からもかばいきれず、また源氏に漏れるおそれもあると、食料ほか親身なもてなしをして、それが壇ノ浦にいるはずの帝一行と知り大層恐縮、以後もよろしくとのこともあり太刀・ほか黄金5千両・武蔵守を拝領する。
浦田を出立したが、逆風で内之浦「内裏」に4月18日流れ着く。
名前も良く前方も開けて良い場所だが、攻め入れられる恐れがあると出立。陸沿いに南下。
21日大泊に・このあいだに高山の肝付兼石・兼藤親子に勅使を出し、高山城に招かれる、城内では発見されると、四十九神社に匿う。もてなした肝付の家臣の守屋家に天皇の皿が残されていた。
陸伝いに転々と大泊までの間、ついて行けなかっり逃亡・離散したのも多く、少なくなった船団で、やっと硫黄島に到着。この時元暦2年乙巳5月1日になっていた。人数は1300人いたのが、300人までに減っていた。
到着した浜に大幕を張る。黄色の蝶が飛んできて、これは長に連なり、黄蝶は平氏の紋・ここで末永く暮らせると、ここに御所を決定。

Aにつづく