平家落人伝説地 奄美大島 あまみおおしま
沖縄・本土の間に奄美の島々があります。海の道を通して大和文化と琉球文化の交流が
なされていきました。鹿児島県の南島のひとつ、この奄美の島々にも平家伝説地が、
いくつも残されています。
残念ながら時間がなくて、資料館・図書館などに出かけられず、ただ、伝説地現場に出むいて・見て・と
いっただけのものになり、もう少し詳しく伝説の由来など調べることができず残念です。
名瀬市 浦上 うらかみ uragami
名瀬市の隣の漁港、大熊から少し入った場所です。大熊は藩の代官所がおかれ、藩船の
出入り港となっていました。この港から浦上川を少し遡り、山の尾根が丘のように張り出した
場所に平有盛神社があります。参道・境内はたくさんの亜熱帯の植物におおわれて、雪など
降らない南国で精神も弱くなったのでしょうか・源氏が攻めてくると言う、間違った情報で有盛
は自決したとの話しも・・平穏無事に過ごしたとか、どちらが正しいか・どちらも・・か分からないが
有盛神社由来記によれば、喜界島からやってきた平家は大島を平定し、有盛がここ浦上に、
行盛が龍郷・戸口、資盛が瀬戸内・諸鈍に根拠地を築いたとのことである。
平有盛神社
亜熱帯植物が境内に生い茂る有盛神社 |
有盛神社・ご神体は石仏「弁天様」 |
龍郷町 戸口 とぐち toguchi
島の西側の海に向けた土地に有盛、反対側の東方面の海に開けた場所に、行盛が
城を築いて、源氏の襲来を警戒したと言われています。その城址に、それぞれの神社が
たてられ、龍郷町・戸口の城跡といわれる場所には、平行盛神社があります。
平行盛神社
平行盛神社登り口の鳥居と案内碑 | やはり、ここも張り出した尾根のような場所に建っている |
瀬戸内町 諸鈍 しょどん syodon
大島本島の南に海峡を挟んでカケロマ島があり、島のまた向こう側に向いて諸鈍があります。
現在、大島の港からカケロマの港まで数キロほど。短い所は2キロ足らずで、大島とカケロマ
迄の距離。カケロマの港は生間「いけんま」で、ここから峠を越えて15分程歩くと諸鈍があります。
諸鈍湾に面していて、風光明媚。こんなに美しい場所で、平家はこの海をどんな思いで見て
いたのでしょう。坂を降り切るあたり、左に大屯「おおちょん」神社があります。ここは平資盛を
奉ってある神社です。お墓も資盛のものと言われるのが2基、境内にあります。
また、資盛がはじめたと伝えられている「諸鈍シバヤ」という国指定の重要無形民俗文化財が
あり、旧暦の9月9日は祭礼日で、全国から観光客が訪れるお祭りが開催されます。
南を向いた諸鈍湾は、中世までは奄美の玄関でした。
大屯神社
大屯神社鳥居から社を・真中にデイゴの大木 | 三位中将平資盛の墓・ほかにも、もうひとつ境内にある。 |
諸鈍集落・生間への峠付近から |
![]() |
平資盛が始めたと言われている諸鈍シバヤ、ひとつの歌詞の中に敦盛の文字も見える ぜひ左のお面をクリック |
龍郷町 今井崎 いまいさき imaizaki
大島の北に向けた守りを、平家落人今井権田大夫が命じられ、安木屋場に配置され
突き出した岬から源氏の追っ手を警戒していたと言う。岬には未舗装の馬の背みたいな
車の運転も恐い、せまい道を遥かに辿って行く辺鄙な場所です。
今井権現はその岬の山の上に、大島の代官今井六衛門が1726年に建てたものです。
今井権現入口 | 今井権現から安木屋場が真下に珊瑚礁の海と東シナ海 |
笠利町 蒲生崎 かもうさき
大島北端、今井崎を挟んで、反対側に蒲生崎があります。ここは、平有盛の家臣
蒲生佐衛門の源氏追っ手の見張り場と言われ、岬の下・屋仁が配置された場所です。
岬は蒲生公園になっていて、植物・鳥なども豊富で南国の明るい陽射しが注いでいます。
蒲生崎展望台360度回りの風景が |
![]() 岬の公園に飛んでいたリュウキウアサギマダラ |
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岬展望台から屋仁・笠利崎方面 |
源為朝伝説
西郷南洲翁の謫居址から蝶を追って、出たら墓地に辿り着き、その石碑を何気なく見たら
鎮西八郎為朝の子孫の、ある一族だけの墓地であると書かれている。近所の人に聞いたら
その一族は昔から村長とか町長になるほどの家柄だと言う。
為朝伝説は大島もカケロマ島とか、喜界島、琉球にも及んでいて、いずれ機会をみてふれてみたい。
鹿児島の平家落人伝説地 日本の四季撮影地鹿児島 鹿児島南薩摩より