真木悠介 Maki, Yusuke

真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店・1981年
鹿児島で時折耳にすることばに、「さつま時間」だとか「あまみ時間」ということばがある。一般的には「時間にルーズである」というネガティブな意味で用いられる。例えば「7時に」と約束しても、それなら「7時半につけばよい」とか、ひどいときには「8時につけばよい」ということになるらしい。
大抵の人間はこれを酷いことだと思うに違いない。私もこれをやられるとかなりむかつく(笑)。ただ、ふと考えてみると、そもそも「7時と約束していたら7時半につけばよい(約束の30分後につけばよい)」という約束事が成り立っている社会に住んでいれば、「ひどい」とも思わないし、「むかつく」こともないに違いない。また、時間の感じ方は、私自身をとってみるだけでも、いちいち異なっている。「楽しいおしゃべり」の時間はひどくはやく過ぎ去っていくし、「退屈な講義」はいつまでたっても終鈴を迎えない。私自身以外の人達と異なっているとは、あえて言う必要もないことだろう。
そのとき我々は無意識に「正しい(正確な)時間」と比較して、「遅れている」だの、「長い」だのと判断しているに過ぎない。そう、私たちにはすでに「正しい時間」は存在しているし、その尺度でもって判断している。そこでは、我々のもつ状況や各々によって変化する「時間」の感覚というのは「はかられる」対象でしかない。
本書『時間の比較社会学』では、その正しい尺度としての「時間」なるものが、歴史的に、そして社会的に規定されているに過ぎない「(全く近代的な)お約束」でしかないことを論証していく。我々が感じるところの「過去」や「未来」の存在しないアフリカのある原始共同体、古代日本における時間意識の変遷、ヘレニズム、オリエントにおける時間意識の変遷(時間の数量化)、工場、官庁、学校によって時計化される近代社会などなど、多くの社会が取り上げられる。
その時、例えば日本なら万葉集の前期と後期に見られる時間意識の違いであるとか、プルーストの作品など、文芸作品が多く登場するのも面白い。若干最後に「時間のニヒリズム(未来で必ず死を迎えるのなら、結局何の意味もないじゃないか、むなしい・・・みたいなやつね)」を克服するにはこうしろ!みたいなお話になっているような気がしないでもないが、気にするほどでもない(少々トンデモ説な気がしなくもないけど)。当たり前のことを疑う視点は面白いけど、少し読むのがしんどかったかな。難しいということはないけどね。
ちなみに「真木悠介」は社会学者見田宗介のペンネームで、多くの著作がある。
2001/4/9

・発行年等は手許にある本の表記に従ってあります。
もどる
Copyright (C) 2001-2002 Denno-uma Valid HTML 4.01!