宮崎哲弥 Miyazaki, Tetsuya

宮崎哲弥、藤井誠二『少年の「罪と罰」論』春秋社・2001年
みんなそうなのかもしれないけれど、僕は自分の経験を重視している。だが、心理学と社会学をやっていた友人と、宮台氏や宮崎氏の影響で、統計というものを結構重視するようになった(とはいえ、自説に都合のよいものをみているだけかもしれないけれど)。
日常でテレビをみ、新聞を読み、雑誌の新聞広告を(記事のタイトルだけ)よんだりしていると、いかにも少年犯罪は増えているように思えるし、凶悪化しているように思える。身近に少年犯罪をおこなうものはいないのに(いや、そう言えばスーパーで人を刺殺した少年がいたか)。しかし、少年による殺人・強姦・放火を統計上でみると、ちっとも増えていない(強盗は増えている)。
ところが、やっぱり私たち(敢えて「たち」)は、少年たちが凶悪犯罪を多く起こしているように感じているし、なんだか最近増えているような気がしている。そして、少年法を厳罰化しろと思ったりする(あ、でもマスコミがどうとかいろいろ書くのも面倒なのでよしとこう。別に機会があるかもしれないし)。
人を殺す気持ちはわからないが、確かに法律がなければ、人を殺してしまうかもしれないと自分を疑ってしまったりする。でも、本当に殺したいと思ったとき(そういう機会や気持ちが訪れたとき)、やっぱ法律なんか関係ないよなぁとも思う。言うまでもないけど、人を殺してもかまわないなんてこれっぽっちも思ってないですよ。罰を重くしたって、その効果は時と場合による限界があるんじゃないかなという話。
近頃の少年少女には、色々思うこともある大人の皆さんもいるかもしれないが、一気に厳罰化へとすすんだ「少年法」、少年審判や少年犯罪についてもう一度しっかり考えてみようというのが本書『少年の「罪と罰」論』。評論家宮崎哲弥氏と、ルポライター藤井誠二氏の対談形式となっている。基本的には、安直な少年法厳罰化に反対しつつ、いわゆる「人権派」にも与しないという立場といえるだろう。前者の姿勢は、先に書いたように、少年犯罪は増えているわけではないということなどから、後者の姿勢は、これまで「人権派」がなおざりにしてきた「被害者」の声を重視する立場から生まれている。また、少年審判のシステムについても多くの異議を提出している。事実認定の問題、厳罰化の効果(これは私の言いようとはちがってもっと現実的な話)についての疑問、少年の更生に関する問題などだ。
法律もバンバンでてきて容易でない部分もあるが、少年犯罪についての自分の意見を相対化したい方(よく考えたい方、深めたい方)、問題点を手っ取り早く勉強してみたい方には(要するに興味のある方には)、結構オススメかも。
2001/6/24

宮崎哲弥『正義の見方』新潮OH!文庫・2001年
宮崎氏は自身のことを「共同体主義者」という。他の人もそうだという。でも僕には宮崎さんのどの辺が「共同体主義」なのかよくわからなかった。
確かに基礎的な共同体としての「家族」というものはよく持ち出すような気はしていたが、かといって「道徳」じみたことは一言も言わない。いや、単に私の「共同体主義」にたいする認識が偏っていただけということなのだろう。私の「共同体主義」にたいする認識は、宮崎さんがあとがきで言うところの「質の悪い共同体実体説」や「復古的道徳論」というものなのだ(多分)。
「『われ』という主体」が「仮の設定であり」、同時に「『われわれ』という共同主体も」存在せず、仮の設定であって、あるのは「共同の関係性のみ」だという程度の共同体主義なら、私もおそらく共同体主義者である。自分を「共同体主義者だ」と思ったことは一度もないけど。この辺も、ちゃんと原典なりにあたって勉強しなきゃいけませんなぁ(遅い?笑)
また、私が宮崎氏を「どの辺が共同体主義者なのか」不思議に思っていたのは、宮崎氏が先に挙げたような「悪質な(共同体主義の)議論」を「駆逐」、もしくは「解体」する段階になって、初めて、氏の書いたものを読むようになったというのもあるかも。
さて、本書はいわゆる時論集。宮崎氏のラディカルさが発揮されている。やっぱり視点の面白さというか切れ味というか、その辺なんだろうなぁ、氏の魅力は。テーマはいろいろだが、大きなものは「夫婦別姓」と「宗教」。「宗教」は、専門の仏教にはじまり、オウムをはじめとする新興宗教、ノストラダムス、中沢新一などなど。「土下座」の話も面白い。
本書は1996年の本で、いわゆる「左傾化」したと言われる前なのだが、読了して、今の宮崎さんとそんなに違和感はない。文庫化にあたって大幅に加筆、修正があったらしいから、やはり、単行本にも一応は目を通したいものだ。
2001/5/26

宮崎哲弥 『新世紀の美徳-ヴァーチャス・リアリティ-』 朝日新聞社・1999年
自称「専業的大衆知識人」による時評集。
私が一部で鼓吹していることに「タイミング理論」がある。要するになにごともタイミング次第だということ。当たり前だけど(笑)。これは「何事も運だ」という知人の意見を、あるきっかけを境に自分なりに色づけし直したものだ。
例えば、私は宮崎氏の本書や評論を「面白い」、「当を得ている」と感じている。しかし、それは18歳の私では無理だったと思うし、10年後には「何を寝ぼけたことを」と感じるかもしれない。私は20歳のころ、村上春樹の「ノルウェイの森」やニーチェの「道徳の系譜」を読んだとき、ものすごい衝撃と共に受け入れたが、今初めて読んだからといってその衝撃を味わえるかどうかわからない。研究室で宮台真司氏のインタヴューテープを聞いたとき、それまで彼の著作を読んだことはなかったが、「ふーん、リベラリストだな」と思った(今思えばそれは当然のことだけれども当時の私にとって当たり前のことではなかった)。それはその少し前に藤原保信の『自由主義の再検討』(岩波新書)を授業で読んでいたり、池田清彦の『正しく生きるとはどういうことか』(新潮社)をバイト中に読んでいたからだ。要は面白いと思うかどうかは、その時の知識や状況に左右されるということだ。これはタイミング次第と言える。
しかし、その知人も私も世の中運やタイミング次第なのだからといって自暴自棄になってはいないし、かといって「運命」だの「神」だのといった超越的なものにすがるのでもない。運やタイミングといった偶然のものは仕方ないとしても、そういった部分をいかに除外していくかを考えればそれでいいからだ・・・みたいなことを考えたりするわけだけど、例えば宮崎氏の本書のおける「諦念なき者たちの自棄的凶行」だとか、『大航海』2000年10月号のインタヴュー「学ぶことの可能性と教えることの不可能性」を読んだりしたとき「なるほど」とか思えるのは、今こういった素地があるという偶然のおかげなのかな(笑)。もちろん上のようなことを書き連ねるきっかけになったのは宮崎氏の本書があったからなんだけど。私の戯言はさておき、本書はお薦めです。
2000/10/16
・発行年等は手許にある本の表記に従ってあります。
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