大塚英志 Otsuka, Eiji

大塚英志『物語消費論』1989年・新曜社
「消費」や「ビックリマン」、「DCブランド」なんかがキーワードになっている辺りが時代を感じさせる。全体的にバブリーな感じもあるし。
ただ、そこで主題となる「物語」の消費、つまり、チョコレートを消費するのではなく、おまけのシール、それもシールに記される断片的な記述を生み出す「世界観」を消費している、というのにはなるほどと思う。私も、なんだかんだ言っても、ガンダムファン、ドラクエファン、銀英伝ファンだし、遅れてきた「スターウォーズ」ファンでもあるからね(ロードス島も似た感じだ)。
また、パロディ系同人誌(まだありますよね、この手の同人誌?)を例に、物語を単に消費するだけでなく、作品の世界観を利用して新たな作品を生みだしてしまう(そして消費してしまう)現象を指摘する。おそらく、このあたりの視点が、近著の『物語の体操』を生み出す原点になっているんだと思う。旧ソ連の学者プロップのネタも、本書にあらわれている。
というわけで、後者の問題に関しては、より完成されている『物語の体操』を読めば十分?
2001/6/9
ちなみに本書はやはり絶版の初期評論の一つらしく、手に入れられたのは僥倖だった。巻頭の「世界と趣向-物語の複製と消費-」は朝日新聞社『季刊小説トリッパー』2001年夏季号に再録されている。
2001/9/9

大塚英志 『物語の体操』 朝日新聞社・2000年
本書の柱は2つ。一つは誰にでも可能な小説(おはなし)の作り方を伝達すること。もう一つはそのことによってえらーい「文学」を相対化すること。いわゆる「文学」(と文章指南)はとりあえず横に置いておいて、ジュニアノベルを書くための基礎体力づくり「おはなしづくり」が目指されています。その基礎体力づくりの方法「準備体操」ももちろん面白く読めるけど(そちらが本線)、あちこちで「文学」を挑発しているのがもっと面白い。これは結構おすすめです。
2001/01/16
大塚英志×ササキバラ・ゴウ『教養としての<まんが・アニメ>』講談社現代新書・2001年
「学生の学力が低下している」といった類の、年寄りにありがちな「昔の学生は・・・」とか、「自分の若い頃は・・・」的な苦言は正直胡散臭いと思っているが(そもそも大学の先生になるような勉強〔研究〕好きの自分とフツーの学生を比べられても困るよね)、やっぱり大学の先生たちは危機感を持っているらしく、理系では高校学力程度の補習も行われているそうだし、また私の恩師も無知な(そしてその自覚のない)学生が教師になってしまうことに責任を感じて、勉強会まで開いてしまう昨今である(ちなみに私はその学生をほとんど見なかったけど)。
以前紹介した小谷野敦氏の『バカのための読書術』もこういった危機感がありありと読めた。本書『教養としての<まんが・アニメ>』も、著者である大塚英志、ササキバラゴウ両氏の、ジュニアノベル作家、漫画家になりたい人たちの専門学校における経験=「危機感」にその端がある。
大塚は、漫画やアニメに全く興味を持っていない人間ならともかく、ジュニア小説が書きたい、漫画が描きたいと思っている若者たちに「おたくの基礎知識」がないことにはじめ戸惑い、憤り、説教しそうになる・・・が、読み継がれるべき漫画、アニメを伝える努力を怠っていたと踏みとどまり、そして「伝える試み」として本書が書かれた(らしい)。
まんが(前半)を大塚氏が、アニメ(後半)をササキバラ氏が担当している。私の読んだところ、大塚氏は手塚治虫以降、まんがが孕んできた「(未)成熟」の問題を、ササキバラ氏はアニメに関する話題をいくつか論じている。
まんが、アニメという違いはもちろんのこと、2人の論じ方にも違いがある。大塚は、戦後まんがにおけるキャラクターの身体性(上手く説明できないので、それは読んでみて)を、手塚→梶原一騎→萩尾望都→吾妻ひでお→岡崎京子と歴史的に論じていく。ササキバラは、宮崎駿と高畑勲、出崎統(アニメ版「あしたのジョー」や「エースをねらえ!」などなど)、富野由悠喜、ガイナックス、石ノ森章太郎(アニメ、実写原作者としての)とアニメに興味がある人間なら知らないはずはない人物(あるいは一党)を取り上げて、それぞれを論じる。
大塚さんの論じ方ってすごいなって思うし、面白いとも思う。でもササキバラさんの雑学的論じ方も嫌いじゃない。ただ、アニメに興味のない人間を引っ張り込めるかはちょっと疑問かなぁ。
2001/8/19
大塚英志『戦後民主主義のリハビリテーション』角川書店・2001年
大塚英志って、なにやら分裂病的に・・・というのは大げさとしても、様々なところで活躍している。まんが原作者としてかなりの人気を誇っているし、かと思えば、(かつて)「論壇」的なフィールドで多くの連載を持ち、それを集めるだけで本書のような本ができあがってしまう。
僕にとってコミック原作者としての大塚は、古いところで「MADARA」、新しいところでは「サイコ」くらいのもので、どちらかというと、以前読売新聞の読書欄でやっていたコラムや、最近活発になっているサブカル評論家というイメージが強い。
大塚がいうように、漫画を読む人間と論壇誌を読む人間には分断があるのだろう。僕も以前漫画やアニメにハマっていたときには論壇なんて存在すら知らなかったし、今は漫画やアニメと少々距離があいてしまっている。これってそんなに珍しいことではないんだろう。
僕がよく行く大きな本屋では、本書がまだ山積みになっている。同じ角川から文庫で出ている『「彼女たち」の連合赤軍』も初版が平積みになっている。でも、やっぱり同じ角川からでている『多重人格探偵サイコ』の最新刊と一緒に並べて、まとめて売ってしまおうっていう発想はない。あんなに大量に本書を仕入れるのだから、大塚さんは「売れる」、「人気がある」と思っているのだろうけど、それなら(その中身−著者紹介欄だけでもいい−を少しでも読んでいるのなら)、コミックとメディアミックスで売っちまおうってのが、本屋としての(資本主義的に、そして大塚的に)正しい在り方だと思う。
コミックコーナーの担当者にはもしかしたらそうした発想は無理かもしれないけれど、人文コーナー担当者には可能なはずなのに。というのは、コミックにおいて大塚の「論壇」的仕事ははっきりしないけれど、本書では「コミック」的仕事がはっきりとするから(それこそ著者紹介欄でも−帯の裏で少々見づらいが−)。本書はタイトルからして、『サイコ』ファンが買ってくれるかどうかはわからないけれど、『物語の体操』くらいだったら、5人に1人くらいは興味をもち、20人に1人くらいは実際に買ってくれるんじゃないかと思ったりする(いつものように数字は比喩ね)。大塚さんの本はそんな感じで「引っかける」ような売り方が可能だと思うんだけどなぁ・・・。
雑誌とかの売り方はいいのに、人文系はまったくジュンクにかなわないぞ。あ、人文書コーナー担当者への私怨が(笑)。まぁ仕方ない、売り場面積が違いすぎるものね。
なんだか本の中身とはあんまり関係ないけれども、最近大塚英志がマイブームだっただけに、何冊か読んでみて、そして行きつけの本屋について以上のようなことを感じた次第です。付け加えておくと、本書でちょっと印象的なのは表紙。「骨」。大塚の「骨」格となるのが本書で擁護される戦後民主主義だ・・・ってのは面白みはないけど、妥当な解釈かな。あとは・・・もしかすると何かのパロディなのかもしれないけど、すみません、私にはわかりません。
2001/9/6

大塚英志『サブカルチャー反戦論』(角川書店・2001年)
同じ角川から出版された前々著『戦後民主主義のリハビリテーション』に続き、「戦後民主主義者」を標榜する立場から今回のアメリカにおけるテロをふまえて、「反戦」について語っていくのが本書だ。
近年、いわゆる「論壇」と呼ばれる場所で元気なのは、左右の区別で言えば右よりの人達、「右翼」とか「ナショナリズム」とかで括られるような人達で、『正論』だとか『諸君!』といった雑誌が、今はどうだか知らないが、売れているようだ。今の首相もはっきりとタカ派で、どちらかといえば、というかはっきりと右よりの人だ。そのせいなのかどうなのか、確かに今の日本では、アメリカの報復攻撃に対して「No」をはっきりと告げる声が小さいように思える。テロの犠牲になったのが一般市民であるというところが一つの要因であるのだろう。「仕方ないよね」って感じか。
特にアメリカではそうなのかもしれないが、「反戦」の声を挙げにくい、あるいはそういった声がメディアにおいても圧力を受けつつある状況で、「やっぱり戦争はまずいし、日本が手を貸すのはおかしいんじゃないの?」という勢力は保っておかなくてはならない。そういった立場から本書は編まれている。
左翼に元気がなくなり全体的に日本が右傾化しつつあるなかで、やっぱり小林よしのりとかにはついていけなくて・・・、という層がかならず一定程度いるはずである。その中でもはっきりと自分の意見だの志向だの持っていない人もまた多いはずで、本書のような本で、そういった言葉にできないものを言葉にしていくことはある程度可能だろう。いわゆる護憲的な声を最近聞かなくなった(届かなくなった?)今、本書は一定の存在意義を持っていると思う。こうした声を、論壇誌でなく、『スニーカー』や『ニュータイプ』のようなサブカル誌であげているってのも確かに面白い。
基本的に僕は大塚さんに同意できると思う。この辺り結構保守的なのかも。ただ、どうも大塚さんが本気でこんな事を考えているのか、なんとなく疑問に思ったりもする。「戦略ちゃうんか」みたいな。しかし、大塚さんの意見を是とする読者がある程度存在し、本書が売れるんであれば、やっぱりそれは戦略的に正解なのだろう。
大塚さん、護憲派の小林よしのりみたいなものを目指してるんだろうか。護憲派のアジテーターみたいなものを。それもマンガを使わずに。マンガを使わなくてもここまでできるってところを見せて欲しい。
2002/1/1
大塚英志『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』(2001年・筑摩書房)
江藤淳という評論家を僕はあまり知らない。いや、高名であることは知っているし、亡くなったことが大きく取り上げられていたことも知っているが、本人の文章にまだ触れたことはない。だから、ほとんど江藤淳という人の理解−と呼べるようなものはないが−があるとすれば、保守な人という先入観と、大塚英志の文章を通した江藤淳でしかない。
で、江藤淳という人が、いわゆる保守と名乗る人々から、尊敬され、引用されるのと、そうした保守を批判し、最近では「戦後民主主義者」を名乗る、いわば左翼な大塚英志(しかし、ここで言う左翼とは革新という意味では決してない)がしきりに言及する(自称保守との線を引きたがる)のを読むと、司馬遼太郎を思いだす。
司馬遼太郎は徹底して軍部を批判して戦時期の日本をうち消し、明治を持ち上げたが、前者は左翼によって多く引用され、前者を含む後者は最近になって、例の歴史教育運動において「司馬史観」などと持ち上げられることになった。その温度差(あれ、でも意外と大きな差があるようにも見えないな)。
ただ、司馬遼太郎に抜けていて、江藤淳にあるのは、−あくまで大塚さんの文章を通じて感じたことだが−、戦後を引き受け続ける、という姿勢なのかもしれない。大塚さんが江藤淳に通じるところってのはそこだ。戦後を否定しない。歴史というか、自分の「来歴」というものを否定せず、逃避せず向き合っていく。
最近の著書、『戦後民主主義のリハビリテーション』や『サブカルチャー反戦論』のように直截ではないが、それだけに、別の角度から大塚さんの主張が見えた気がする。
追記:生年月日と出生地しか記されていない著者紹介の欄に意味を見いだそうとするのは考え過ぎなのだろうか?
2002/1/21
・発行年等は手許にある本の表記に従ってあります。
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