上野千鶴子 Ueno, Chizuko

上野千鶴子『家父長制と資本制』岩波書店・1990年
さて、私は「フェミニスト(的)」である。
こう書くと男性は「男のくせに女にすり寄るのか」と難じ、女性(特にフェミニスト)は「男なんかに女のことがわかるはずがない」と目くじらを立てるのかもしれない。
いや、仰るとおりである。確かに女性に嫌われたくないし、女性特有の現象を理解が出来るはずもない(が、それを言ったら、性別に限らずとも他人のことなんか理解できるはずもないと思う)。
私が、−どちらかといえば−フェミニスト寄りなのは、別に男女が(権利と実態において)平等であるべきだ!とか、(すべての)女性が(すべての)男性に抑圧されている(?)ことを憂慮しているからではない。単に実家に住む私が「男のくせに」弁当を作ったり、「男のくせに」料理や水回りを(一部)担当しているのを「アブノーマルだ」と断じられたり(笑)、友人(女性)が「なぜ女であることがこんなに不利なのか」と嘆いたり、悩んだりしているのをどうにかしたいだけである。
個人的な理由でフェミニストを「応援している」にすぎないし、上述の女性たちにも「ウダウダ言わないで。で、どうすんの?」と他人事だから、行動を促すだけである(笑)。このあたり、自分の優位性を確保しているというか、温情、同情的な立場で、とても「フェミニスト」とは言えない立場だろう。だが、一応その辺を自覚しているという意味で「フェミニスト的」と言ってみたわけだ。
ところでその女性がいうのだが、「女性(フェミニスト)の敵は女性である」らしい。確かに、現在の(女性が抑圧された)社会のなかに適応し、幸せな生活を送っている女性は、なぜ今の社会を「改良」しなくてはならないのか、疑問であるに違いない。つまり、(一部の)フェミニストが掲げる「女性」なるものは「(一部の)女性フェミニストとそのシンパ」にすぎない。ただ、こういうことをいうと、男性たる私が、「女性」を分断しようと画策していることになるそうなのだが(笑)。
さて、意見ともつかない戯言をあれこれ書いたのは、特に上野氏の著作の前置きというわけでもない(笑)。ていうか、少し難しいのである。
本書は上野氏の主著といっていい。(今はどうだか知らないが)マルクス主義フェミニストたる氏の立場を示した書であるからだ。本書は理論篇と分析篇に別れていて、前半の「理論篇」では(近代的な)家父長制と資本制を軸とする、フェミニズムとマルクス主義の「双方」を軸とする多元的視点をなぜ採用するのか、ということが述べられている。後半はその視点をもとに、「家事労働」を中心に、歴史的な分析が行われる「分析篇」となっている。
正直、わかったような、わからなかったような、というところ。ただ、「女性」なり、「男性」なりが歴史的、社会的に構築されたとする立場には同意できる。しかしなぁ。本書で批判的に扱われている「パート女性」は、近年の不況下でますます増えていそうだし、若者(男性、女性に限らず)のフリーターも増えている。女性だけでなく、若者も、そして中高年も「弱者」となりつつある。この辺はどうなるんだろうなぁ。まぁそれは「フェミニスト」の仕事ではないか。うん、問題を一元化してしまうことこそ上野が避けようとする陥穽なのだ。
2001/5/20
その後自分の「フェミニスト的立場」とここで自嘲的に語っている立場をさらに考えなければならない状況に陥った。けどやっぱり開き直ることになる。また危機に立つのかもしれないな。
2001/9/9

・発行年等は手許にある本の表記に従ってあります。
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