眠られぬ夜のために


電脳馬がこれまで読んだ本の感想・評価・印象です。

こちらで紹介する本は小説とは異なり、もしかすると正しい理解、正確な読解(あるいは「より正確な」読解)が可能なのかもしれません。
(つまり、私は小説には読者それぞれの読み方や感じ方がある、と考えています。まぁ程度問題ですけど)
しかし、ここでコメントされる内容は私の浅い知識とその時の感覚に左右される曖昧なものであることを予めご了承下さい。
「読了日記」を加筆修正したものが主なので、感想にすらなっていないものもあります。こちらもご勘弁のほどを。

本についての異なった意見・感想については、ぜひ掲示板に書き込んで下さい。お待ちいたしております。


東浩紀 『存在論的、郵便的』 新潮社・1998年
はじめの方は「ふんふん」って感じで読んでいたのですが、後半になればなるほど難解になっていく印象。読んだことで知ったかぶりたかったんだけど(笑)、さすがに一筋縄ではいきませんでした。何年かしたらもう一度読んでみよう。
2000/11/10
東浩紀 『不過視なものの世界』 朝日新聞社・2000年
私、こんなに難しい対談集読んだことないよ。でもそのイメージは冒頭の斉藤環との対談に由来するかも。だって、浅田彰の「スキゾ/パラノ」くらいはわかる(「知っている」と言うべきかな)けど、「象徴界」だの「ファルス」だの「シェーマL」とかで説明されたってわかりません(笑)。やめてほしいです、そういうメタファーは。でもまぁラカンくらいは知っておきたいよねー。でもやっぱりわかんないです。
比較的わかるのは(比較的です)、法月倫太郎との対談「謎解きの世界」。このなかで法月がいう「(社会派の後を受けた)本格ミステリと80年代的な状況との対応が指摘されはじめて、僕らの小説も時代を映した一種の社会派ミステリだったという見方が支配的になりつつある」という発言にはなるほどと思ったかな。
2001/1/16
網野善彦 『続・日本の歴史をよみなおす』 ちくまプリマーブックス・1996年
「百姓=農民なのか?」という問いかけから始まる本書。確かにこれまでの日本史では「百姓=農民」と扱われてきたのかもしれないが、私の中では高校時代の国語教師に「百姓(ひゃくせい)=人民」となんども吹き込まれていたので、「百姓=農民」という認識がそれほど強固でもない。農家の祖父は自分のことを「百姓、百姓」と言ってはいたけど。本書はそういった「百姓=農民」という農本主義への懐疑とこれまでの常識の転倒に貫かれている。廻船商人として裕福な「水呑(一般的には小作人と説明される)」、前田家百万石の能登半島で海辺の重要拠点を押さえる一万石の土方家(一般的には小大名とされる)など、これまで農業中心とされてきた中世、近世の日本社会を、海民、山民といった非農業民が活躍する重商主義社会でもって相対化しようと試みている。こうした見方は、網野氏が自身を「異端」と呼ぶようにいまだ少数派なのであろうが、史料をもとに説明される文章は説得力を持っているし(細かい用語はわからないけど 笑)、何よりこれまでの常識を打ち壊していく新しい視点は魅力的である。日本史に全く興味のないあなたも読んでみて損はしない、日本史入門の書。
2000/12/23
網野善彦 『日本論の視座-列島の社会と国家-』 小学館ライブラリー・1993年
執拗に「単一日本民族」、「単一国家」、「稲作一元論」の相対化をはかる歴史家・網野氏による本書は、『日本民俗文化体系』(小学館)所収の論文が多く含まれているせいか、少し民俗学よりで、堅め。序論として、序章「『日本』という国号」、第一章「日本論の視座」が用意され、「国号としての『日本』」、「日本島国論」、「水田稲作一元論」、「単一民族論」、「単一国家論」など我々がこれまで常識としてきた日本論(今となってはそんなものを素朴に信じる人は少ないだろうが)、日本社会論の持つ問題点を指摘する。そして第2章以降の「遍歴と定住の諸相」、「中世の旅人たち」、「中世『芸能』の場とその特質」、「日本文字社会の特質」といった論文で、先のような問題への批判を試みている(と思う)。中でも「中世の旅人たち」は長くて、民俗学的な研究が多く取り入れられている。宮崎駿の映画『もののけ姫』に網野史学が強い影響を与えたことはよく知られているが、「三 『職人』の遍歴 鋳物師」や「四 遍歴民の衣装」に出てくる記述には「おお、あの職業は・・・」とか「あ〜こんな服着てた」みたいな感想を持った(実際に参考にしたかどうかは知りませんが)。でも網野さんの専門と『もののけ姫』では時代が少々違うか(あの映画、鉄砲出てたよなぁ)。
若干難しめな気がしたので、興味ある方だけどうぞ(じゃないと私のように時間がかかることになる 笑)。
2001/3/29
上野千鶴子『家父長制と資本制』岩波書店・1990年
さて、私は「フェミニスト(的)」である。
こう書くと男性は「男のくせに女にすり寄るのか」と難じ、女性(特にフェミニスト)は「男なんかに女のことがわかるはずがない」と目くじらを立てるのかもしれない。
いや、仰るとおりである。確かに女性に嫌われたくないし、女性特有の現象を理解が出来るはずもない(が、それを言ったら、性別に限らずとも他人のことなんか理解できるはずもないと思う)。
私が、−どちらかといえば−フェミニスト寄りなのは、別に男女が(権利と実態において)平等であるべきだ!とか、(すべての)女性が(すべての)男性に抑圧されている(?)ことを憂慮しているからではない。単に実家に住む私が「男のくせに」弁当を作ったり、「男のくせに」料理や水回りを(一部)担当しているのを「アブノーマルだ」と断じられたり(笑)、友人(女性)が「なぜ女であることがこんなに不利なのか」と嘆いたり、悩んだりしているのをどうにかしたいだけである。
個人的な理由でフェミニストを「応援している」にすぎないし、上述の女性たちにも「ウダウダ言わないで。で、どうすんの?」と他人事だから、行動を促すだけである(笑)。このあたり、自分の優位性を確保しているというか、温情、同情的な立場で、とても「フェミニスト」とは言えない立場だろう。だが、一応その辺を自覚しているという意味で「フェミニスト的」と言ってみたわけだ。
ところでその女性がいうのだが、「女性(フェミニスト)の敵は女性である」らしい。確かに、現在の(女性が抑圧された)社会のなかに適応し、幸せな生活を送っている女性は、なぜ今の社会を「改良」しなくてはならないのか、疑問であるに違いない。つまり、(一部の)フェミニストが掲げる「女性」なるものは「(一部の)女性フェミニストとそのシンパ」にすぎない。ただ、こういうことをいうと、男性たる私が、「女性」を分断しようと画策していることになるそうなのだが(笑)。
さて、意見ともつかない戯言をあれこれ書いたのは、特に上野氏の著作の前置きというわけでもない(笑)。ていうか、少し難しいのである。
本書は上野氏の主著といっていい。(今はどうだか知らないが)マルクス主義フェミニストたる氏の立場を示した書であるからだ。本書は理論篇と分析篇に別れていて、前半の「理論篇」では(近代的な)家父長制と資本制を軸とする、フェミニズムとマルクス主義の「双方」を軸とする多元的視点をなぜ採用するのか、ということが述べられている。後半はその視点をもとに、「家事労働」を中心に、歴史的な分析が行われる「分析篇」となっている。
正直、わかったような、わからなかったような、というところ。ただ、「女性」なり、「男性」なりが歴史的、社会的に構築されたとする立場には同意できる。しかしなぁ。本書で批判的に扱われている「パート女性」は、近年の不況下でますます増えていそうだし、若者(男性、女性に限らず)のフリーターも増えている。女性だけでなく、若者も、そして中高年も「弱者」となりつつある。この辺はどうなるんだろうなぁ。まぁそれは「フェミニスト」の仕事ではないか。うん、問題を一元化してしまうことこそ上野が避けようとする陥穽なのだ。
2001/5/20
その後自分の「フェミニスト的立場」とここで自嘲的に語っている立場をさらに考えなければならない状況に陥った。けどやっぱり開き直ることになる。また危機に立つのかもしれないな。
2001/9/9

大塚英志『物語消費論』1989年・新曜社
「消費」や「ビックリマン」、「DCブランド」なんかがキーワードになっている辺りが時代を感じさせる。全体的にバブリーな感じもあるし。
ただ、そこで主題となる「物語」の消費、つまり、チョコレートを消費するのではなく、おまけのシール、それもシールに記される断片的な記述を生み出す「世界観」を消費している、というのにはなるほどと思う。私も、なんだかんだ言っても、ガンダムファン、ドラクエファン、銀英伝ファンだし、遅れてきた「スターウォーズ」ファンでもあるからね(ロードス島も似た感じだ)。
また、パロディ系同人誌(まだありますよね、この手の同人誌?)を例に、物語を単に消費するだけでなく、作品の世界観を利用して新たな作品を生みだしてしまう(そして消費してしまう)現象を指摘する。おそらく、このあたりの視点が、近著の『物語の体操』を生み出す原点になっているんだと思う。旧ソ連の学者プロップのネタも、本書にあらわれている。
というわけで、後者の問題に関しては、より完成されている『物語の体操』を読めば十分?
2001/6/9
ちなみに本書はやはり絶版の初期評論の一つらしく、手に入れられたのは僥倖だった。巻頭の「世界と趣向-物語の複製と消費-」は朝日新聞社『季刊小説トリッパー』2001年夏季号に再録されている。
2001/9/9

大塚英志 『物語の体操』 朝日新聞社・2000年
本書の柱は2つ。一つは誰にでも可能な小説(おはなし)の作り方を伝達すること。もう一つはそのことによってえらーい「文学」を相対化すること。いわゆる「文学」(と文章指南)はとりあえず横に置いておいて、ジュニアノベルを書くための基礎体力づくり「おはなしづくり」が目指されています。その基礎体力づくりの方法「準備体操」ももちろん面白く読めるけど(そちらが本線)、あちこちで「文学」を挑発しているのがもっと面白い。これは結構おすすめです。
2001/01/16
大塚英志×ササキバラ・ゴウ『教養としての<まんが・アニメ>』講談社現代新書・2001年
「学生の学力が低下している」といった類の、年寄りにありがちな「昔の学生は・・・」とか、「自分の若い頃は・・・」的な苦言は正直胡散臭いと思っているが(そもそも大学の先生になるような勉強〔研究〕好きの自分とフツーの学生を比べられても困るよね)、やっぱり大学の先生たちは危機感を持っているらしく、理系では高校学力程度の補習も行われているそうだし、また私の恩師も無知な(そしてその自覚のない)学生が教師になってしまうことに責任を感じて、勉強会まで開いてしまう昨今である(ちなみに私はその学生をほとんど見なかったけど)。
以前紹介した小谷野敦氏の『バカのための読書術』もこういった危機感がありありと読めた。本書『教養としての<まんが・アニメ>』も、著者である大塚英志、ササキバラゴウ両氏の、ジュニアノベル作家、漫画家になりたい人たちの専門学校における経験=「危機感」にその端がある。
大塚は、漫画やアニメに全く興味を持っていない人間ならともかく、ジュニア小説が書きたい、漫画が描きたいと思っている若者たちに「おたくの基礎知識」がないことにはじめ戸惑い、憤り、説教しそうになる・・・が、読み継がれるべき漫画、アニメを伝える努力を怠っていたと踏みとどまり、そして「伝える試み」として本書が書かれた(らしい)。
まんが(前半)を大塚氏が、アニメ(後半)をササキバラ氏が担当している。私の読んだところ、大塚氏は手塚治虫以降、まんがが孕んできた「(未)成熟」の問題を、ササキバラ氏はアニメに関する話題をいくつか論じている。
まんが、アニメという違いはもちろんのこと、2人の論じ方にも違いがある。大塚は、戦後まんがにおけるキャラクターの身体性(上手く説明できないので、それは読んでみて)を、手塚→梶原一騎→萩尾望都→吾妻ひでお→岡崎京子と歴史的に論じていく。ササキバラは、宮崎駿と高畑勲、出崎統(アニメ版「あしたのジョー」や「エースをねらえ!」などなど)、富野由悠喜、ガイナックス、石ノ森章太郎(アニメ、実写原作者としての)とアニメに興味がある人間なら知らないはずはない人物(あるいは一党)を取り上げて、それぞれを論じる。
大塚さんの論じ方ってすごいなって思うし、面白いとも思う。でもササキバラさんの雑学的論じ方も嫌いじゃない。ただ、アニメに興味のない人間を引っ張り込めるかはちょっと疑問かなぁ。
2001/8/19
大塚英志『戦後民主主義のリハビリテーション』角川書店・2001年
大塚英志って、なにやら分裂病的に・・・というのは大げさとしても、様々なところで活躍している。まんが原作者としてかなりの人気を誇っているし、かと思えば、(かつて)「論壇」的なフィールドで多くの連載を持ち、それを集めるだけで本書のような本ができあがってしまう。
僕にとってコミック原作者としての大塚は、古いところで「MADARA」、新しいところでは「サイコ」くらいのもので、どちらかというと、以前読売新聞の読書欄でやっていたコラムや、最近活発になっているサブカル評論家というイメージが強い。
大塚がいうように、漫画を読む人間と論壇誌を読む人間には分断があるのだろう。僕も以前漫画やアニメにハマっていたときには論壇なんて存在すら知らなかったし、今は漫画やアニメと少々距離があいてしまっている。これってそんなに珍しいことではないんだろう。
僕がよく行く大きな本屋では、本書がまだ山積みになっている。同じ角川から文庫で出ている『「彼女たち」の連合赤軍』も初版が平積みになっている。でも、やっぱり同じ角川からでている『多重人格探偵サイコ』の最新刊と一緒に並べて、まとめて売ってしまおうっていう発想はない。あんなに大量に本書を仕入れるのだから、大塚さんは「売れる」、「人気がある」と思っているのだろうけど、それなら(その中身−著者紹介欄だけでもいい−を少しでも読んでいるのなら)、コミックとメディアミックスで売っちまおうってのが、本屋としての(資本主義的に、そして大塚的に)正しい在り方だと思う。
コミックコーナーの担当者にはもしかしたらそうした発想は無理かもしれないけれど、人文コーナー担当者には可能なはずなのに。というのは、コミックにおいて大塚の「論壇」的仕事ははっきりしないけれど、本書では「コミック」的仕事がはっきりとするから(それこそ著者紹介欄でも−帯の裏で少々見づらいが−)。本書はタイトルからして、『サイコ』ファンが買ってくれるかどうかはわからないけれど、『物語の体操』くらいだったら、5人に1人くらいは興味をもち、20人に1人くらいは実際に買ってくれるんじゃないかと思ったりする(いつものように数字は比喩ね)。大塚さんの本はそんな感じで「引っかける」ような売り方が可能だと思うんだけどなぁ・・・。
雑誌とかの売り方はいいのに、人文系はまったくジュンクにかなわないぞ。あ、人文書コーナー担当者への私怨が(笑)。まぁ仕方ない、売り場面積が違いすぎるものね。
なんだか本の中身とはあんまり関係ないけれども、最近大塚英志がマイブームだっただけに、何冊か読んでみて、そして行きつけの本屋について以上のようなことを感じた次第です。付け加えておくと、本書でちょっと印象的なのは表紙。「骨」。大塚の「骨」格となるのが本書で擁護される戦後民主主義だ・・・ってのは面白みはないけど、妥当な解釈かな。あとは・・・もしかすると何かのパロディなのかもしれないけど、すみません、私にはわかりません。
2001/9/6

笠井潔『ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つか?』早川書房・2001年
「評論」というものをどうとらえるかってのは人それぞれかもしれない。私の場合、正直「邪道」な感じがしなくもない。これってやっぱり「作品(なり、オリジナル)」が上で、その下に「評論」なるものが、密に群がるアリのように存在しているようなイメージから来ているんだと思う。
でも、私は結構「評論」好きである。(小説など)ある「作品」を単体で楽しむというのはもちろん「正道」であるように思うのだけれど、その「作品」が系統的に、状況的にどう位置づけられるのかを考えたり、それについて考えている文章を読むことが、もしかすると「作品」自体を読むよりも好きなのかもしれない。ちょっと言い過ぎか。ただ、その作品(と作者)を歴史やら状況やら切り離して読み解くことは不可能であるように思うから(ついでに読者も)、評論が全く無意味とも思わないのだ。
さて、本書は、評論家で、思想家で、作家でもある笠井潔氏の時評的ミステリ評論。早川のミステリ誌『ミステリマガジン』の連載が1998年4月号から2000年9月号分まで収めていて、「ミステリ」の現在が論じられる。笠井氏は、基本的に清涼院流水以降の世代(の一部)に対して批判的で、90年代以降のミステリ状況を「セルダン危機」と名付けて、危機感を募らせている。その危機感が本連載を開始させる動機となったようだ。面白い論考もあれば、ちんぷんかんぷんなものの、少々うざったいものもある。最後に収められている綾辻行人氏との対談は非常にわかりやすい。
2001/7/14

小谷野敦『バカのための読書術』ちくま新書・2001年
「バカ面白い」の一言に尽きる。あっという間に読み終わった。まぁ新書だし、薄いってこともあるのだが、何しろ書いてることが面白く、挑発的。さらに文章が底抜けするほど平易だ(もちろん皮肉ではない)。そりゃ「バカ」に向けて書いているわけだから、小難しくするわけにはいかないだろう。そして、その「難しい本」をどちらかというと批判しているわけだしね。
面白いし、賛同できるところも多いのだが、耳が痛いところも、賛成できない部分もある。確かに私は「バカだと思われたくない」し、「こんな難しそうな本を読んでいる(選んでいる)なんてすごいなー」と思われたい(その割には・・・笑)。でも関心あるんだから仕方ない。「事実とは何か」とか「自分と他人が同じ人間であるという証拠はどこにあるのか」という問題設定をくだらないとは思わないし(それほど大事とも思わないが)、興味もあるからだ(無論小谷野自身も興味がないという訳ではおそらくなく、単に「バカ」には向かないと言っているだけだ)。
そして、言うまでもないが、小谷野はインテリだし、多分頭もかなりいい。それに、こういう本を書いたのは、本人が今の学生たちの、学力の低さに辟易しているからだし、危機感も抱いているからだ。この辺は本書にもにじみ出ているし、『論座』(2000年9月号)誌上での大月隆寛との対談(放談?)にもあらわれている。
だから、どうも本書は「オヤジの小言」に聞こえてしまう。まずは「事実」に就けという彼の主張にも、印象でものを語る私(それも誇大に!)にはかなり耳の痛い話だ(印象だけで「今、少年犯罪が増えている」とか言ったりしないだけましだろ!・・・ま、宮台や宮崎の啓蒙のおかげだが 笑)。確かに「統計」はかなり正確な傾向がでるらしい(そう言えば統計では否定されているらしい「残酷ゲーム(ホラー映画でも可)」の長期的悪影響や少年による殺人増加のウソにヒステリックに反応するPTAには結構辟易だよね)。ま、統計の取り方にもいろいろあるんでしょうけど。
ちょっと話がそれました(笑)。それに(カッコ)が多いなぁ。
-閑話休題-
本書は、多くの視点を含んだ、そして若干保守的な、教養入門書になっています。芸達者です、小谷野さん。オススメ。まずは軽く立ち読みしてみて。
ちなみに小谷野(こやの)さんは明治大学講師(多分今も)。大阪大を、いじめられて辞めたらしい(笑)。以前『もてない男』(ちくま新書)が結構話題になったと思うが、ちょっと恥ずかしくて買えない(笑)。でも本書がかなり面白かったので、他にも何冊か買ってみようと思っているところ。
2001/5/10

斉藤美奈子『妊娠小説』筑摩書房・1994年
だけど、ふと思い出して永江朗の『批評の事情』にある斉藤美奈子の項を読むと、ほとんど同じことが書いてある。口惜しい。まぁ事前に『批評の〜』を読んでいたから、気づくことができたのかもしれないけど。うーん、他人が書いたこと(しかもプロが)を僕が繰り返すのもなぁ・・・。まぁ、仕方ない。僕なりに紹介(なにをいきなり言い訳してるんだか)。
本書は文芸批評というジャンルになるのだろう。
「妊娠」を素材として扱っている小説を取り上げて、真面目に分析(するふりを)し、分類して(ニヤリとできる)レッテルを貼り付ける。「妊娠小説」というのはようするに「望まない妊娠」−大概は男が−、が出てくる小説とされる。鴎外の『舞姫』に始まり、石原の『太陽の季節』、三島の『美徳のよろめき』などなど、名前は聞いたことのある(だけど僕は一冊も読んだことない)メジャーな小説ばかりが取り上げられる。「妊娠小説」が読者一般に受け入れられたジャンルであることを実証するためだそう。
本書は3章に大きくわけられる。「妊娠小説」の歴史、「妊娠小説」の構造、「妊娠小説」の類型。
その真面目で、なんだか笑える分析を通して、「妊娠小説」における男性、つまり「受胎告知」される男性のワンパターンぶりを笑い飛ばし、また、妊娠してしまう女性のステレオタイプぶりを笑い飛ばし、ひいてはそういった小説を書いている作家(ほとんどは男性)の貧相な女性観を笑い飛ばす。如何に、「妊娠小説」が「文学」における定番であるか、そして、如何に、似たような形式を持っているかを見ていくことで、「妊娠小説」を笑っていくのである。面白いです。でも僕は、この後の『紅一点論』の方がもっと笑えたのだけれど・・・それはまた別の話。
2001/10/5
斉藤美奈子『紅一点論』ビレッジセンター・1998年
「紅一点」という言葉はよく聞くけれど、もとは「萬緑叢中紅一点」という言葉だとはしらなんだ。もとは凡夫の中に俊才が一人という意味らしい。斉藤氏が言がうように僕らは「男の中に女がひとり」の意味でしか使ってない。そして、これはとりわけ、いわゆる「戦隊モノ」ではよく見る光景だ。本書はその特撮だけでなく、アニメや伝記の中のヒロイン、女性像を取り上げて論じていく。
そこでは今回も「笑い飛ばす」という方針が健在だ。
例えば、
「日本人の入浴コンプレックスは、低年齢者用のアニメをも支配しており、劇場公開版の『ドラえもん』では、しずかちゃんのヌードシーンが定番となっている。のび太はしずかちゃんの風呂をのぞくことに人生最大の生きがいを見いだしているとさえいえるほどである」
とか、「(註:『宇宙戦艦ヤマト』の)森雪の役目は明らかである。彼女は、ひとりだけ特別にベンチ入りを許された野球部の女子マネージャーである。彼女の役職名は『生活班長』だが、生活班長とは、体のいい下働き兼職場の花である。どうしても必要な人材ではないことは、画面を見るだに明らかだ」
みたいな調子である。
日本の伝記シリーズに登場する女性は、せいぜいナイチンゲールか、キュリー夫人か、ヘレン・ケラーで(表記がそれぞれ名前、夫の姓、フルネームだなんて気がつかなかったなぁ)、それもウソ・・・までは言わなくとも、彼女たちのほんの一面しか捉えていないという事実、まぁ物語上は仕方ないにせよ、も指摘される。伝記分析の項は、アニメ関係に比べると、笑えるというより「へぇー」と納得してしまう類の面白さだった。
あとがきの「萬緑叢中紅一点は、けっして健全な状況ではない。それじたいが不健全なのではなく、それだけが幅をきかせていることが不健全なのである」という言葉に「おお、名言だ」などと感じ入った次第。
2001/10/30

斉藤美奈子 『読者は踊る』 マガジンハウス・1998年
本書は書評と時評が混ざったような本で、筆者がテーマ毎にまとめて読んだ本を批評するというスタイル。テーマはその時に話題になっている本(死海文書や利己遺伝子も)を中心としているが、「聖書」があったり、「辞典」や毎年出ている『イミダス』や『現代用語の基礎知識』のような「情報事典」まで扱われていたりする。
基本的にはたくさんけなして、何冊かをほめるというスタイルだが、その視点は「踊る読者」ということにある。踊る読者というのは、まあ一般的な読者のことで、本好きで、ベストセラーは必ず読み、「現代社会を読むキーワード」みたいな言葉に惹かれるような小市民読者、つまりは知識を詰め込んで知ったかぶりをしたいような読者ということになる(笑)。まえがきにチェックリストがあって、これやってみるとまさしく私も「踊る読者」(笑)。ベストセラーは読まないけど、先に挙げた東浩紀の本なんて「知ったかぶりたい」だけのような気がしてくる。そもそも書評を読むって行為-書評で一気に数冊を読んだ気になる-ってのが、まさに踊ってるよね。
ともあれ、本書は面白い。「けなす」ことが多いわけだが、それが無理矢理な感じもなくて納得できる。図書館や古本屋で見かけたらぜひご一読あれ(もちろん買ってもいいよ 笑)。
2000/11/09
斉藤美奈子 『あほらし屋の鐘が鳴る』 朝日新聞社・1999年
エッセイ集。やけに書評が多いなぁと思っていたら、この人朝日新聞の書評委員なんですね。納得。
中身はというと、『UNO!』(朝日新聞社)というかつてあった雑誌に連載されていた女性向け雑誌批評、『pink』(マガジンハウス)に連載されたエッセイ(時評?)、朝日新聞夕刊の「ウォッチ文芸」をまとめたもの。基本的に女性向け雑誌に掲載されたエッセイのため、(本人曰く)「女性の読者とわかちあえる話題」が選ばれていて、特に『pink』掲載分は基本的に世の中のオヤジどもを揶揄するような内容になっています。取り上げられている話題は政治・経済・社会一般。『UNO!』掲載分の女性雑誌批評はそのままで、「non・no」や「an・an」に始まり、「暮らしの手帳」や「きょうの料理」まで幅広く女性向け雑誌が取り上げられ、おもしろおかしく批評されています。ここでオススメを挙げることに意味があるのかわかりませんが、特に「できたアイドル」「亡国五輪音頭」などが面白く読めました。
さて、本書のわけわかんないタイトルですが・・・あとがきを読んでね。カーン(笑)
2000/11/27
斉藤美奈子『モダンガール論』2000年・マガジンハウス
女性が自分自身の願望を果たす(出世する)ための二つの道、社長になるか(つまり家の外で働くか)、社長夫人になるか(家のなかで働くか)を揺れ動いてきた過程を、歴史的に見ていく本書(欲望史観!)。職業婦人と家庭婦人が、自由に選べる『選択肢』ではなく、「若いうちは働いて、あとは家庭に入る」という年齢的な棲み分けであったり、「無産階級は職業婦人、中産階級は家庭婦人」という階級的棲み分けだった、という話。しかし、女性が「性別役割分業社会」で、抑圧されてきたのだ!というわかりやすい(?)結論のみで終わるわけでもない。その枠組みの中で女性は自分の欲望を満たすために頑張ってきたのだ・・・というフォローもある。
女性誌を多く引用した論の展開が斉藤さんらしい。簡単でおもしろーいというわけにはさすがにいかないが、他の類似書に比べるとやっぱり読みやすい。女性史100年を知りたいという方は、まず手に取ってみてもいいかも。
ちょっと補足。
女性が、ある枠組み−ここでは基本的に女性が不利に置かれている「性別役割分業社会」−の中で頑張ってきた、ということを指摘したとしても(女性にとって)フォローにはならない、と思われる方もいるかもしれない(結局男に搾取されたんじゃないか!みたいな感じで)。
ここは、単純に過去を否定してもしょうがない(そう簡単にはいかない)という意味で、一定の評価を与えているということなのである。こうした(単純な)極論に簡単に走らない慎重さに私は好感をもつ。私はすーぐわかりやすい極論に陥ってしまうので(笑)。
2001/6/17

永江朗『批評の事情-不良のための論壇案内-』原書房・2001年
最近、永江さんの名前を見かけるようになってきた。
私はこれまで永江さんを文芸評論家なのだと思っていた(別にはずれてはいないと思うが)。書評とかよく見かける気がするし・・・。ところが著者紹介欄を読むと結構幅の広いライターさんのようだ。
本書は若手評論家を彼(彼女)らの仕事をもとに論じていく本。「論壇エンターテインメント読本」だそうだ。
まずは「論壇」って一体何なんだってところで、いくつか意見がありそう。私は政治やら社会やら、ある対象に対して意見を持っていて、いろいろ説明してくれる人たちの集まりというか場(雑誌とか)みたいなものと考えている。そんなもの虚構だとか、所詮プロレスだとかまた別に問題があるのだろうけど。
最近私がよく読んでいる宮台真司、宮崎哲哉、山形浩生、大塚英志、東浩紀、斉藤美奈子というのは本人がどう思っているかはともかく、永江さんによれば、「論壇」に属する若手評論家の人たちということになる。
私好きなんだよね〜、こういう類の本。別に誰が何について詳しくて、どういうことを語っているかなんて、私の人生には関係なさそうだけれど。
特に注意してこの手の本を読むようになったのは「面白いから」というのが一番の理由なのだけれど、そういえば恩師に「え?そんなことも知らないの?ちょっと遅れてるんじゃない?」と言われて「何ぉー!」と思ったのも大きな契機のような気もする。
ワンパターンだな、オレ(笑)。
ま、ともかく、社会や文芸だけでなく、映画、音楽、建築といった芸術系、カメラや自動車などの評論家まで集められている。この辺に筆者の幅広さが出ている。
2001/9/24
橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』筑摩書房・2001年
私の宗教理解など、全く怪しいものである。橋爪が指摘するように「日本人にとって、宗教は知的な活動ではないから、病気や災難にあってこまっているひとの気休めか、人をだます迷信ということになる」という域を超えない。
人の災難につけ込む新興宗教の話はよく聞くし、伝統宗教の、法事にやってくる坊主はどうでもいいつまんない説教をして、一時間で十数万もふんだくっていく。多分、後者が僕の仏教に対する不信感のスタートだろう。しかし、その仏教の堕落が、江戸幕府による宗教政策が原因とは・・・(ホントかな?)。
宗教社会学は、「宗教」がそれを信仰する人々(社会)の価値観を規定する重要な枠組み(の一つ)であることを前提として、それをキーワードとして社会の在り方を説明していこうという学問である。
宗教は人間の行動様式を知る上で重要なファクターであるけれど、日本人は基本的に無宗教で、先ほど書いたような先入観みたいなものもあるから、宗教を信じ、それに忠実であろうとする人間(つまり外国人)を理解し難かったりする。それはまずいでしょ、というのが橋爪氏が本書をだそうとした動機だ(と書いてある)。
取り上げられるのは、代表的な世界宗教で、ユダヤ教(あれ?民族宗教だ)、キリスト教(宗教改革を含む)、イスラム教、初期仏教、大乗仏教、儒教、あとは日本における仏教、儒教の変容など(尊皇攘夷含む)である。
橋爪さんの文章は平易。ものすごくわかりやすい。ただ・・・、これは単行本じゃなくて、ちくま新書だったりすると、もっと多くの人に読んでもらえたのではないかなぁ。そうすると分量が減ってしまうのかもしれないけど。
2001/9/16
この後、アメリカのテロ事件が起こり、イスラムや宗教に対する関心が高まって、関連書が多く見られるようになった。お陰で本書も増刷。手に入りやすくなった。読みやすいと思うので興味ある方はどうぞ。
2001/11/26
藤井誠二,宮崎哲哉『少年の「罪と罰」論』春秋社・2001年
みんなそうなのかもしれないけれど、僕は自分の経験を重視している。だが、心理学と社会学をやっていた友人と、宮台氏や宮崎氏の影響で、統計というものを結構重視するようになった(とはいえ、自説に都合のよいものをみているだけかもしれないけれど)。
日常でテレビをみ、新聞を読み、雑誌の新聞広告を(記事のタイトルだけ)よんだりしていると、いかにも少年犯罪は増えているように思えるし、凶悪化しているように思える。身近に少年犯罪をおこなうものはいないのに(いや、そう言えばスーパーで人を刺殺した少年がいたか)。しかし、少年による殺人・強姦・放火を統計上でみると、ちっとも増えていない(強盗は増えている)。
ところが、やっぱり私たち(敢えて「たち」)は、少年たちが凶悪犯罪を多く起こしているように感じているし、なんだか最近増えているような気がしている。そして、少年法を厳罰化しろと思ったりする(あ、でもマスコミがどうとかいろいろ書くのも面倒なのでよしとこう。別に機会があるかもしれないし)。
人を殺す気持ちはわからないが、確かに法律がなければ、人を殺してしまうかもしれないと自分を疑ってしまったりする。でも、本当に殺したいと思ったとき(そういう機会や気持ちが訪れたとき)、やっぱ法律なんか関係ないよなぁとも思う。言うまでもないけど、人を殺してもかまわないなんてこれっぽっちも思ってないですよ。罰を重くしたって、その効果は時と場合による限界があるんじゃないかなという話。
近頃の少年少女には、色々思うこともある大人の皆さんもいるかもしれないが、一気に厳罰化へとすすんだ「少年法」、少年審判や少年犯罪についてもう一度しっかり考えてみようというのが本書『少年の「罪と罰」論』。評論家宮崎哲哉氏と、ルポライター藤井誠二氏の対談形式となっている。基本的には、安直な少年法厳罰化に反対しつつ、いわゆる「人権派」にも与しないという立場といえるだろう。前者の姿勢は、先に書いたように、少年犯罪は増えているわけではないということなどから、後者の姿勢は、これまで「人権派」がなおざりにしてきた「被害者」の声を重視する立場から生まれている。また、少年審判のシステムについても多くの異議を提出している。事実認定の問題、厳罰化の効果(これは私の言いようとはちがってもっと現実的な話)についての疑問、少年の更生に関する問題などだ。
法律もバンバンでてきて容易でない部分もあるが、少年犯罪についての自分の意見を相対化したい方(よく考えたい方、深めたい方)、問題点を手っ取り早く勉強してみたい方には(要するに興味のある方には)、結構オススメかも。
2001/6/24

真木悠介『時間の比較社会学』岩波書店・1981年
鹿児島で時折耳にすることばに、「さつま時間」だとか「あまみ時間」ということばがある。一般的には「時間にルーズである」というネガティブな意味で用いられる。例えば「7時に」と約束しても、それなら「7時半につけばよい」とか、ひどいときには「8時につけばよい」ということになるらしい。
大抵の人間はこれを酷いことだと思うに違いない。私もこれをやられるとかなりむかつく(笑)。ただ、ふと考えてみると、そもそも「7時と約束していたら7時半につけばよい(約束の30分後につけばよい)」という約束事が成り立っている社会に住んでいれば、「ひどい」とも思わないし、「むかつく」こともないに違いない。また、時間の感じ方は、私自身をとってみるだけでも、いちいち異なっている。「楽しいおしゃべり」の時間はひどくはやく過ぎ去っていくし、「退屈な講義」はいつまでたっても終鈴を迎えない。私自身以外の人達と異なっているとは、あえて言う必要もないことだろう。
そのとき我々は無意識に「正しい(正確な)時間」と比較して、「遅れている」だの、「長い」だのと判断しているに過ぎない。そう、私たちにはすでに「正しい時間」は存在しているし、その尺度でもって判断している。そこでは、我々のもつ状況や各々によって変化する「時間」の感覚というのは「はかられる」対象でしかない。
本書『時間の比較社会学』では、その正しい尺度としての「時間」なるものが、歴史的に、そして社会的に規定されているに過ぎない「(全く近代的な)お約束」でしかないことを論証していく。我々が感じるところの「過去」や「未来」の存在しないアフリカのある原始共同体、古代日本における時間意識の変遷、ヘレニズム、オリエントにおける時間意識の変遷(時間の数量化)、工場、官庁、学校によって時計化される近代社会などなど、多くの社会が取り上げられる。
その時、例えば日本なら万葉集の前期と後期に見られる時間意識の違いであるとか、プルーストの作品など、文芸作品が多く登場するのも面白い。若干最後に「時間のニヒリズム(未来で必ず死を迎えるのなら、結局何の意味もないじゃないか、むなしい・・・みたいなやつね)」を克服するにはこうしろ!みたいなお話になっているような気がしないでもないが、気にするほどでもない(少々トンデモ説な気がしなくもないけど)。当たり前のことを疑う視点は面白いけど、少し読むのがしんどかったかな。難しいということはないけどね。
ちなみに「真木悠介」は社会学者見田宗介のペンネームで、多くの著作がある。
2001/4/9

宮崎哲哉『正義の見方』新潮OH!文庫・2001年
宮崎氏は自身のことを「共同体主義者」という。他の人もそうだという。でも僕には宮崎さんのどの辺が「共同体主義」なのかよくわからなかった。
確かに基礎的な共同体としての「家族」というものはよく持ち出すような気はしていたが、かといって「道徳」じみたことは一言も言わない。いや、単に私の「共同体主義」にたいする認識が偏っていただけということなのだろう。私の「共同体主義」にたいする認識は、宮崎さんがあとがきで言うところの「質の悪い共同体実体説」や「復古的道徳論」というものなのだ(多分)。
「『われ』という主体」が「仮の設定であり」、同時に「『われわれ』という共同主体も」存在せず、仮の設定であって、あるのは「共同の関係性のみ」だという程度の共同体主義なら、私もおそらく共同体主義者である。自分を「共同体主義者だ」と思ったことは一度もないけど。この辺も、ちゃんと原典なりにあたって勉強しなきゃいけませんなぁ(遅い?笑)
また、私が宮崎氏を「どの辺が共同体主義者なのか」不思議に思っていたのは、宮崎氏が先に挙げたような「悪質な(共同体主義の)議論」を「駆逐」、もしくは「解体」する段階になって、初めて、氏の書いたものを読むようになったというのもあるかも。
さて、本書はいわゆる時論集。宮崎氏のラディカルさが発揮されている。やっぱり視点の面白さというか切れ味というか、その辺なんだろうなぁ、氏の魅力は。テーマはいろいろだが、大きなものは「夫婦別姓」と「宗教」。「宗教」は、専門の仏教にはじまり、オウムをはじめとする新興宗教、ノストラダムス、中沢新一などなど。「土下座」の話も面白い。
本書は1996年の本で、いわゆる「左傾化」したと言われる前なのだが、読了して、今の宮崎さんとそんなに違和感はない。文庫化にあたって大幅に加筆、修正があったらしいから、やはり、単行本にも一応は目を通したいものだ。
2001/5/26

宮崎哲哉 『新世紀の美徳-ヴァーチャス・リアリティ-』 朝日新聞社・1999年
自称「専業的大衆知識人」による時評集。
私が一部で鼓吹していることに「タイミング理論」がある。要するになにごともタイミング次第だということ。当たり前だけど(笑)。これは「何事も運だ」という知人の意見を、あるきっかけを境に自分なりに色づけし直したものだ。
例えば、私は宮崎氏の本書や評論を「面白い」、「当を得ている」と感じている。しかし、それは18歳の私では無理だったと思うし、10年後には「何を寝ぼけたことを」と感じるかもしれない。私は20歳のころ、村上春樹の「ノルウェイの森」やニーチェの「道徳の系譜」を読んだとき、ものすごい衝撃と共に受け入れたが、今初めて読んだからといってその衝撃を味わえるかどうかわからない。研究室で宮台真司氏のインタヴューテープを聞いたとき、それまで彼の著作を読んだことはなかったが、「ふーん、リベラリストだな」と思った(今思えばそれは当然のことだけれども当時の私にとって当たり前のことではなかった)。それはその少し前に藤原保信の『自由主義の再検討』(岩波新書)を授業で読んでいたり、池田清彦の『正しく生きるとはどういうことか』(新潮社)をバイト中に読んでいたからだ。要は面白いと思うかどうかは、その時の知識や状況に左右されるということだ。これはタイミング次第と言える。
しかし、その知人も私も世の中運やタイミング次第なのだからといって自暴自棄になってはいないし、かといって「運命」だの「神」だのといった超越的なものにすがるのでもない。運やタイミングといった偶然のものは仕方ないとしても、そういった部分をいかに除外していくかを考えればそれでいいからだ・・・みたいなことを考えたりするわけだけど、例えば宮崎氏の本書のおける「諦念なき者たちの自棄的凶行」だとか、『大航海』2000年10月号のインタヴュー「学ぶことの可能性と教えることの不可能性」を読んだりしたとき「なるほど」とか思えるのは、今こういった素地があるという偶然のおかげなのかな(笑)。もちろん上のようなことを書き連ねるきっかけになったのは宮崎氏の本書があったからなんだけど。私の戯言はさておき、本書はお薦めです。
2000/10/16
宮台真司 『制服少女たちの選択』 講談社・1994年
本書はほとんどデビュー作と言える初期の本で、まだ宮台氏が「ブルセラ学者」とみなされていた頃の少し堅めの本。
前半の切り口はやはり、「ブルセラ」・「援交」ですが、こうした単語からイメージされるようなセンセーショナルな内容は(ほとんど)ないまともな本です。後半は新人類やオタクについての分析が中心。基本的な問題(テーマ)はコミュニケーションの分断(社会の島宇宙化)なのかな、と思います。それをどうやってうまく回していくか、ということを本書以後問い続けているんじゃないんかなー。だめ?違う?
2001/1/31
宮台真司 『これが答えだ!』 飛鳥新社・1998年
本書は「性愛・家族・学校・社会・国家・宮台」という6つのカテゴリーに分けられ、合計で100の質問に対して宮台氏が見開き2ページで明快に答えていく、というスタイル。相変わらず深い内容のわりにわかりやすいし、面白い。テーマや言ってることはいつものことなので、とくに目新しさはないけれど、宮台氏の思想を概観する上ではいいかもしれません。オススメは・・・カテゴリーとしては「社会」、細かいところでは宗教関係のところなんか笑えるかも・・・笑えない?
2001/1/24
宮台真司 『野獣系で行こう!!』 朝日新聞社・1999年
対談集。対談の相手は「マゾ男優(観念絵夢)から文部官僚(寺脇研)まで」(カッコ内は私)と表紙に書いてあるほど多様。内容は「セックス・実存・若者・教育・ニュータウン・学問・論壇」とこちらも多様。いつものフィールドといえばフィールドですが。
特に面白おかしく書かれているのは「論壇」の部分で、いつものように論壇人(右も左も)が馬鹿にされまくっている。読んでるこっちも勘違いしてしまいそうなほどバッサバッサと斬られまくり。読み応えがあるのは小室直樹との対談。長いし、知らないことばっかり(笑)。
以前から一部で物議を醸していた表紙ですが(今、母親に「何?その本?」と言われてしまいました)、シールを剥がしてもたいしたことはありません。情報提供してくれた友人に感謝(笑)。
2000/12/18
宮台真司 『自由な新世紀・不自由なあなた』 メディアファクトリー・2000年
前半は「ダ・ヴィンチ」連載の「世紀末相談」。風邪をひいていて気弱になっていたのもあるかもしれないが、かなりブルーになりかけた。「久々の『鬱状態』か?」と期待したがすぐに去ってしまった。いろいろ考えさせて(教えて)くれるけど、まぁ普通。私が面白く読めたのは「自由と秩序 −自己決定と社会システム論」のところで、一部から非生産的と揶揄される(笑)I氏とのやりとりを思い出した。あとは『戦争論妄想論』に入ってたやつとか、『援交から革命へ』に入ってる「天皇のモード」の話など。
2000/11/02
宮台真司 『援交から革命へ』 ワニブックス・2000年
本書は宮台真司の解説を集めた「多面的解説集」。それぞれの解説に対して、もともと解説が付された本や映画の作者自身のリアクションが組み合わされている。相変わらず宮台さんお手軽な本の作り方やってるなぁというのが第一印象だが、中身はもちろん硬派である(軟派もあり)。
しかし、ざっと中身を見渡してみると、私が読んだ本はただ一冊、桜井亜美の「イノセントワールド」のみ。映画は一つも見ていない(さびしい私の教養)。作品を読んだり観たりしていないのに解説だけ読むのは邪道な気もするが、そこは宮台、巧妙に自説に近づけており、独立した論文(エッセイ)として十分読める。
読んで面白いのは後半。サブカルチャー以降が面白い。特に私のお薦めは「なぜ海が聞こえなくなったか」(氷室冴子『海がきこえる』徳間文庫解説)。以前大学院の後輩Y氏が「男の子はロマンチックだ」と言っていたのだが、この解説を読んでわかったような気がする・・・んだけど(笑)。
あと、もともとそうなのかもしれないが、本書では宮台真司の「思想」だけでなく宮台真司の「実存」、あるいは「実存的関心」があらゆる場面で顔を出し、強調されたりする。なにやら人間的な宮台真司が垣間見えるようで引き寄せられてしまいそうになる。でもちょっと待て。なにやら「罠」の匂いがする。それでもかかってみたい魅力的な罠だ。
2000/10/24
森岡正博『宗教なき時代を生きるために』1996年・法蔵館
宗教を信じる(あるいは好意的である)友人たちと宗教を信じない(どころか悪意さえ感じている)私が、議論、対話するために、どのような本を読めばいいか、そう恩師に問うたことが、本書を手にするきっかけとなった。
もちろん、本書はマニュアル本の類ではない(そう取れないこともないが)。だから、結局私が宗教とどう向かい合うかということを自分で考えるしかない。
世界とは何か、自分(人生)とは何か、などと問う場合に必要なこととして森岡氏は次の四つをあげる(電脳馬要約)。
1.絶対の真理は誰によっても語られず、今後も語られることはない、という感覚に忠実になる。答えが出なくとも繰り返し問い続ける。
2.死後の世界、絶対者や超越者、神の存在などについて断定的に語らない。
3.世界と宇宙の成り立ちについて断定的態度をとらない。
4.これら根本的な事柄について、他人の言葉や思考にみずからを重ねない。
1などは、私にとって自明であったりするのだが、そのくせ(1の立場なら、もちろん2〜4の方法もとっていそうなものなのに)、私は2〜4とは真逆の、傲慢で断定的な態度をとり続けているような気がする。
出来事や説、意見に対して、如何に謙虚でいられるかが、近年の私にとっての問題であるが、やっぱりすぐ調子に乗るし、他人(の言っていること)をバカにしたがるし、偉ぶった態度を取ってしまう。おそらくその辺りを見かねた恩師が本書を薦めてくれたに違いない。また、最後に取り上げられるフェミニズムの問題。これもおそらく恩師は射程に入れていたのではないか、と思われてならない(「そんなことまで考えてないよ」とか言われそう 笑)。本書読了後、後輩(女性)から突きつけられた「エセフェミニスト問題」(と、とりあえずここでは呼んでおこう)とも絡んで、ひどく私を悩ませた。が、まぁ自分にできることをただやるだけだ、と開き直ることにした。今はこれでいい気がしている。
ちょっと自分の話にそれてしまった。ただ、本書がなぜ、いろいろと考えさせるかといえば、おそらく森岡氏と似たような問題をかつて私自身が抱えていたからだろうし、今も一部を引きずっているからだろう。
しかし、本書は少しばかり、森岡氏自身の問題が表に出過ぎているようにも感じた(意図的ではあろうが)。その辺が少々痛々しい。それが我慢できる、あるいはそもそも我慢する必要のない人にとっては、同意できるできないに関わらず面白く読めるだろう。
2001/8/13
山形浩生『新教養主義宣言』晶文社・1999年
すっげーおもしろい。山形さんの思惑(本気がどうかは定かじゃないが、「教養の基盤」をつくりなおすことらしい)はともかく、どれも(本書は論文〈雑文〉集なのだ)かっとんでいるし、書評で取り上げられている本はみんな読みたくなってくる(早速一冊買ってみた)。
ただ、やっぱり読者を選びそうだ。中身についていけないということではなく(それなら私も相当怪しい)、この攻撃的で、悪意に満ちて、人を小馬鹿にしたような、そして差別的で、高慢ちきな文章が(僕は運良く?受け入れることができた)。もちろん、これはこれで芸の一つとみなすべきなのだろう。けれど、これで読者が減ってしまうのは勿体ない気がする。でもやっぱり「節度なき罵詈雑言」のない山形浩生は(私にとって)ものすごくつまんないだろうから、これでいいのだ。
本書は評論家(?)としての山形浩生氏のここ10年間の仕事を集めたもの。本職は確か野村証券系のシンクタンクの研究員、調査員だったかな。しかし、本職と関係しそうなのは、経済の話くらいのもので、大半はネット関連の話や書評(SFが多い。「CUT」に連載されたもの)などだ。そういえば、先日政府や日銀が回避した(よね?)「インフレターゲット」は、本書では(あるいはクルーグマンの本では)推奨されている(みんなに物価が上がると触れて回る→貯蓄してもお金の価値が下がる→みんなが今のうちに金を使ってしまえと考える→景気が良くなる・・・但しインフレは危険、とみなすのが一般的だから政府や日銀はこの政策を取れない)。
前回に引き続き「教養」書。やはり、山形さんも日本人に基礎的な教養みたいなものがないことを憂いている。ただ、僕のイメージだと「そんなもん(バカ・・無知なやつは)ほっとけ」って言いそうな感じなのだが(実際言ってるんだわ)、そうだとしてもやっぱり書いちゃう(まとめちゃう)のね、こういう本を。半分は商売としても。
2001/8/27
・発行年等は手許にある本の表記に従ってあります。
もどる
Copyright (C) 2001 Denno-uma Valid HTML 4.01!