上仙田東屋敷供養塔群

モクヨ山六地蔵塔

松梅蒔絵櫛笥附属品並びに目録共一合

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松原田観音寺跡石塔群

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上野神社周辺供養塔群

開聞古事縁起によると,上野集落は,舒明天皇の子孫にあたる上野少将左衛門大夫藤原豊若麿によって荘園化されたとあり,上野氏系図によると桓武天皇の子孫である平良文の孫がこの地に来たと記されています。また,他家古城主由来記にも上野氏の名前が見え,頴娃氏の一族としてこの地域を治めたとも言われています。さて,上野神社周辺には,こうした伝承との関連を思わせる「上野どんの墓」と呼ばれる,百数十の供養塔群があります。供養塔群は,比翼塚(愛し合って死んだ男女を一緒に葬った塚)ともみられる2墓の宝塔を中心に,周囲には五輪塔や板碑等,中世の資料と思われるものが多くあります。伝承と供養塔群との関係にはまだ不明な点もありますが,昔から地域の人々は,上野城主の墓として供養塔群の保存につとめ,昭和15年には,整地して神社を新築しました。かつてこの地に暮した人々の仏教信仰の深さを偲ばせる大切な文化財です。

興玉神社(九玉大明神)の棟礼

興玉神社には,5枚の棟礼が残っています。棟礼とは,棟上げのとき,工事の由緒・年月日・建築者・工匠(飾りや工作を作る職人)などを記して,棟木に打ちつける札のことです。最も古いのは,天文5年の棟礼です。天文5年(1536)12月20日と記された棟礼は,頴娃氏第4代兼洪の時代のもので,頴娃氏の延命(長生き)・子孫繁昌・武運長久(戦に勝つ運命が長く続くこと)・郡内安全の祈願などが記されています。兼洪の家来の竹内実通が,大工の田中左近太夫,鍛冶職人の上野景勝に命じて九玉大明神の再建造を行った時のものです。 この他,正徳2年(1712),安永4年(1775)寛政元年(1789),文化5年(1808)の棟礼が残っています。

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山川地区指定文化財
松梅蒔絵櫛笥附属品並びに目録共一合
枚聞神社本殿
縄状玄武岩
瑞応院跡
入野原石塔群
天の岩屋供養塔群
松原田観音寺跡石塔群
瑞応院中興開山舜請の墓
上野神社周辺供養塔群
上仙田東屋敷供養塔群
モクヨ山六地蔵塔(仙田室屋)
興玉神社(九玉大明神)の棟札
九郎塚・頼宋塚
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舜請法印(法印=僧の最上位の役職名)は,小納言阿閣梨と号し(本名のほかに別の名前を名乗ること),正中3年(1326)に瑞応院を再興しました。舜請は,応永27年(1420)11月27日,131歳で亡くなったといわれています。舜請の墓は開聞神社の東に建てられていて,3基の宝筐印塔の中央にあります。左右の2基は南向きに建てられていますが,舜請の墓だけは神社の方(西向き)を向いています。墓が神社の方を向いているのは,御神体の御化粧の不都合で罰を受け,目玉が飛び出したことに対して深くざんげした舜請が生きたまま墓の中に入り,七日七夜リンを鳴らしながら神社の方を伏して拝み死んでいったためと伝えられています。
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枚聞神社

「空から見ても溶岩の影がわかるね。」        

今から約400年前,薩摩藩は幕府の許可を得て,琉球王国を統治し,琉球からは,毎年,使節団が鹿児島を訪れるようになりました。枚聞神社の宝物殿には,江戸時代に琉球使節から奉納された「扁額(へんがく)」(門戸や室内などに掲げる横に長い額)が7枚飾られています。琉球使節が残した扁額は,県内に十数枚ありますが,もっとも数が多いのが枚聞神社です。この理由は,琉球から使節が鹿児島を訪れる際,航海の目印にしていた開聞岳を奉る神社であったからだと言われています。

枚聞神社は,薩摩国で一番に格付けされた神社(一の宮)です。中世にも,大きな力を持っていたことから,様々な品物がもたらされ,指宿の歴史を示す貴重な資料が多く残されています。松梅の蒔絵で飾られた女性の化粧箱です。中には,小さな櫛が11,小さな壺が1など23個の化粧道具が入っています。化粧箱の目録に大永3年(1523)に書かれています。室町時代の高貴な女性が使ったものでしょう。
地元の人々に九郎塚(クロドン)・頼宋塚(デスドン)と呼ばれる2つの塚には,次のような話が伝えられています。頴娃6代城主兼堅の子,九郎には,兼堅の側室の子である小四郎という弟がいました。兼堅の死後,この異母兄弟の間で,頴娃家の相続争いが起こりました。小四郎の母親が,わが子に頴娃家を継がせようと兄の九郎をひどくいじめたのです。事情を伝え聞いた島津貴久は,九郎に深く同情し,自分の近くに住まわせました。しかし,元亀2年(1571)に貴久は死んでしまい,九郎は後ろ盾を失ってしまいました。貴久が亡くなると,頴娃家の実権を握っていた小四郎の母親は,小四郎を城主にしようと謀りました。九郎を支持する農民たちは,九郎に,頴娃城へ帰ってもらうようお願いしました。その願いを受け,一旦は,頴娃城にもどってきた九郎でしたが,城の中に九郎を温かく迎える者はいませんでした。意を決した九郎は,元亀2年(1571)7月13日,63名の家来とともに枚聞神社に立てこもり,九郎を支持する農民は,7月17日,頴娃城に攻め込みました。しかし,戦闘に不慣れな農民たちは返り討ちにあい,九郎たちはたちまち兵に取り囲まれてしまいました。 瑞応院14代の住職であった頼は,九郎を坊之津の一乗院に逃がそうとかくまいましたが,ともに兵士に見つかり,殺されてしまいました。二人の悲しい死を悼んだ村人は,九郎と頼が亡くなった場所にそれぞれ塚を建て,二人を供養したということです。

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縄状玄武岩

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開聞岳のふもとに「岩屋どん」と呼ばれる場所があります。ここには現在7つの板碑と数基の五輪塔の残欠が建っています。室町時代のものと江戸時代のものがありますが,いずれも,当時の人々が,死後の冥福(死んだ後の幸福)を祈って生前に塔を建てたものです。この岩屋には次のような伝説が残っています。ある僧侶が,岩屋で,法水(修行のために身体を洗い清めるための水)を汲んで37日間の間の修行をしていたところに1頭の牡鹿が現れ,法水をなめました。するとは牡鹿はたちまちみごもり,女の子が生まれました。瑞照姫と名付けられた女の子は,知通和尚に育てられ,後に天智天皇の后になり,大宮姫と呼ばれたということです。

唐船峡東入口の近くには,むくろじの大木の林があり,古くから「モクヨ山」と呼ばれています。その山に,天正10年(1582)に建てられた高さ2mの六地蔵塔を中心に,数基の五輪塔と板碑1基があります。六地蔵塔は笠の部分が破損していましたが,昭和56年に修復しました。六地蔵塔には,頴娃城にいた平姓池田対馬守(平姓=平氏の流れをくむ)が,天正8年(1580)に急死した次男,新三郎の成仏を願って供養したという碑文が刻まれています。

開聞古事縁起によると,昔,この一帯に観音
寺が建てられていたそうです。しかし,廃寺
になったり,明治の廃仏毀釈で破壊されたりしました。その結果, 六地蔵塔や五輪地蔵塔,板碑等は,永い年月にわたって,地中に埋もれて散逸したままでした。昭和2年,公民館敷地を整地するときに,埋もれていたこれらの供養塔を掘り出して集め保存してきました。昭和59年,公民館の改築に伴って現在地に移設し,種類ごとにまとめて安置しなおしました。大永2年8月(1522)と記されている六地蔵塔は,この地方で最も古いものです
.。

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九郎塚

頼宋塚

天の岩屋供養塔群

ひとくちメモ
山川地区の文化財

「宝物殿には,貴重な文化財が
たくさん展示してあるよ」

この石塔群は,どれも無銘で誰のものかわか
っていませんが,石塔の造り方や形などから
室町時代のものではないかと推定されています。 開聞宮由緒古跡糺方帳には,瑞応院より2kmほど西の方,入野原に小四郎の塚があると記されています。小四郎は,頴娃家の相続争いで兄九郎と瑞応院の住職であった頼宗を殺し第7代の頴娃城主となった人物です。ただ,現在残っている石塔群が,小四郎や頴娃氏に関係するものかどうかはわかっていません。 この石塔は,現在地の西南約100mのところにありましが,昭和60年度の区画整理事業の際,現在地に移転しました。

枚聞神社は,薩摩国の一の宮です。神社の縁起には,和銅元年(708)と記されています。文書に現れる最初の記録は,『日本三代実録』の貞観2年(860)のものです。貞観16年の開聞岳の噴火で,一時期揖宿神社に御神体を移したと言われています。現在の本殿は,慶長15年(1610)に島津義弘が寄進したもので,天明7年(1787)に島津重豪が改築したものです。社殿の正面に勅使殿があり,その奥に拝殿・幣殿・本殿と並んであります。本殿は千木,鰹木を銅板葺きの屋根にのせて,入母屋造となっています。総朱塗極彩色で,特に向拝柱雲竜の彫刻柱は製作技術の高さを示しています。
枚聞神社の西側一帯には,江戸時代まで瑞応院という枚聞神社の別当寺(神社に付属していた寺)がありました。開聞故事縁起には,瑞応院は,智通僧正によって白雉3年(652)に建てられたとあります。その後,数百年の間,廃寺となっていましたが,正中3年(1326),島津氏が舜請和尚に再興させ,坊津一乗院の末寺となりました。明治初期の廃仏毀釈に至る約450年の間,枚聞神社の別当寺として神社を司り,大きな権力を持っていたようです。また,瑞応院には,島津元久,家久公の位牌が安置され,頴娃郷の菩提寺でもあったと伝えられています。本尊は,廃仏毀釈の難をさけるため石棺に埋め隠されましたが,明治12年に掘り出され,現在は,坊津久志の広泉寺に安置されています。

瑞応院跡

COCCOはしむれのホーム
指宿地区の文化財

徳偏海天 天明3年(1783)仲夏穀旦 球陽尚周(義村王子朝宜)

ひとくちメモ

仙田瓦ヶ尾一帯は,昔,仙田村東屋敷と呼ばれていました。ここには,この地に住んでいた六兵衛(戒名は月秋浄井上座)が建立したと言われる六地蔵塔1基,五輪塔15基,板碑6基,その他多数の供養塔の残欠が残っています。元和8年(1622)に建立された六地蔵塔には,六兵衛が,この世の幸福と極楽に往生することを願って,伊勢神宮や熊野権現にお参りたこと,33カ所を巡礼したことなどが刻まれています。

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入野原石塔群

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瑞応院中興開山舜請の墓

「枚聞神社の宝物殿に展示されています。」        

縄状玄武岩は,地表や地下の浅いところで急
激に冷えて固まった溶岩の一種です。花瀬か
ら田崎の海岸にかけて露出する玄武岩は,紀
元前500年頃の開聞岳の大爆発で流れ出たも
のと推定されています。玄武岩は,ガラスの主成分でもある二酸化ケイ素の含有量が比較的少なく流動性に富んでいます。そのため,地表に流れ出た際に,障害物があるとうねうねと 曲がったり,縄状にねじれたりして,ユニークな自然地形を形成します。日本で見られる溶岩は,桜島にあるようなゴツゴツとした砕塊溶岩がほとんどでが,花瀬海岸は,沖へ向かってドロドロと流れ出た溶岩の様子を見ることができる貴重なポイントです。縄状玄武岩は,火山と大地の活動を知ることができる珍しい溶岩です

ひとくちメモ