←もどる

今和泉の殿様
将軍家の血統がとだえたときに、跡継(あとつ)ぎを迎えるために徳川御三家(とくがわごさんけ)が作られたように、島津家にも「一門家」(いちもんけ)が設けられました。昔、4代当主島津忠宗(ただむね)の次男である忠氏(ただうじ)が出水を治めていた時に、姓を出水(和泉)に改めて和泉家ができました。しかし、応永年間の戦で5代当主の直久(なおひさ)が戦死し、和泉家は絶えてしまいました。それからおよそ320年後の延享元年(1744年)に22代藩主島津継豊は、「和泉家」を「今和泉家」として復活させました。今和泉島津家は藩の中で最上の家柄である「一門家」とされ、領地を治めるほかに、他の一門家の代役を勤めたり、参勤交代から帰られる藩主を国境まで迎えにいったりと多忙な日々を送っていたようです。